大斎節前主日 説教

2026年2月15日(日)大斎節前主日

出エジプト記 24:12-18; IIペトロ1:16-21; マタイ17:1-9

1970年代以降、「灰の水曜日」の前の日曜日は、顕現節を締めくくる主日として位置付けられました。

 それに基づいて、福音書朗読はイエス・キリストの栄光をもっとも明らかに示す箇所、「変容貌」(Transfiguration)の物語が選ばれました。

 「変容貌」の物語は全共観福音書に出てきます。マルコ福音書9章2節から8節、マタイ17章1節から8節、そしてルカ福音書の9章28節から36節です。

 この物語のイエス様以外の二人の登場人物は、預言者と律法というイスラエルの二つの巨大な伝統を代表しています。

 モーセは神の掟である律法の授与者であり、イスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導き出した指導者ということになっています

 エリヤは、たった一人で850人のバアルの預言者に戦いを挑み、偶像崇拝者を滅ぼし、イスラエルを偶像崇拝から清めた英雄です。

 エリヤはその英雄的行為の故に、「死を味わうことなく、天に上げられた」という「伝説」まで生まれました(II列王2:11)。

 しかし律法の授与者であり絶対的権威と見做されていたモーセと、預言者の中の預言者であるエリヤも姿を消し、イエス様だけがその場に残されます。 そして天からの声は言います。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と。

 こうして変容貌の物語は、イエス・キリストの栄光はモーセとエリヤの栄光に勝るものであり、教会はイエス・キリストの声に聞き従うべきであると言おうとしています。

 さらに変容貌の物語は、イエス・キリストの栄光は、十字架の死の向こう側に現れたことを語ることによって、イエス様に倣う者たちも、同じ危険に直面していることを警告しようとしています。

 かつて、大日本帝国が、中国や朝鮮半島の植民化を目指して侵略戦争を始め、それを「聖戦」と呼んだ時、一番初めに「非国民」としてターゲットになったのは、クリスチャンたちでした。

 私たちが日本と呼んでいる国は、1889年の大日本帝国憲法発布によって生まれました。

 その翌年の1890年10月に、「教育勅語」とよばれる文章が、天皇の名で発表されました。

 大日本帝国文部省は、6年間のドイツ留学終えて帰国し、東京大学で最初の教授となった井上哲次郎に、教育勅語の公式注解の執筆を依頼します。

 井上哲次郎が執筆し、1881年9月に発表された教育勅語の公式注解は『勅語衍義』(ちょくごえんぎ)と呼ばれます。

 これは国家が定めた教育勅語の、国家自身による解釈であり、「修身」という科目の教科書として、日本中の学校で使われるようになりました。

 そして、教育勅語と『勅語衍義』(ちょくごえんぎ)は、1945年の敗戦に至るまで、日本中の全ての学校における教育の絶対的基礎、教育の礎石と位置付けられたのです。

 教育勅語によって据えられた国民道徳の唯一にして究極の目標は、天皇のために自らの命を進んで投げ出す国民を創造することでした。

 教育勅語には、次の一文があります。「一旦緩急あれば義勇公奉じ、以って天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」。

 これは、「国に危機が迫った時には、正義と勇気を掲げて公、つまり国のために命を捧げ、限りない天皇の支配を拡大させよ」という意味です。

 『勅語衍義』の中で井上は、全てを天皇に捧げるという国民的義務に異を唱え、国を弱体化させる「悖逆乖戻ノ徒」(はいぎゃくかいれいのと)に警戒しなくてはならないと警告しています(『勅語衍義(巻下)』p. 45.)。

 この「悖逆乖戻ノ徒」(はいぎゃくかいれいのと)とは誰でしょうか?それはクリスチャンです。井上は『教育と宗教の衝突』という著書の中で、こう言っています。

 勅語の定める国民道徳に抵抗するのは、仏教者でもなく、儒者でもなく、神道者でもなく、「唯ヽ耶蘇教徒」のみだ、と。

 教育勅語に示されている国民道徳は、歴代天皇の教えであり、天皇を神々として崇拝することにあるのに対して、キリスト教倫理は「他の神」を崇拝することにある。 だからキリスト教徒は「悖逆乖戻ノ徒」(はいぎゃくかいれいのと)なのだ。井上はそう述べています。

 先の選挙で圧勝した自民党は、いよいよ憲法改正に着手するでしょう。

 自民党は2012年に「日本国憲法改正草案」を発表していますが、それは大日本帝国憲法の再来です。

草案に記された緊急事態条項(98条・99条)は、内閣が議会を停止させ、国会の審議を経ずに、勝手にルールを作ることを可能にします。緊急事態が宣言されると、選挙も行われなくなります。

 これは、ヒトラーが議会から立法権を簒奪した「全権委任法」とまったく同じものです。

 そして「基本的人権」は「制限」の名の下に停止され、政府に対する絶対的服従が要求されます。

 憲法は本来、人権を「保障」するものですが、自民党憲法草案は「政府が人権に配慮する」ことで事足りるとしています。

 極め付けは草案第99条第3項で、「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、国その他の公の機関の指示に従わなければならない」となっています。

 再び、教会の礼拝が特高により監視され、信仰の内容が国によって検閲される時が、そう遠くないうちに来るかもしれません。 私たちは十字架を追い求めはしません。苦しみを美化することも、賞賛することもありません。

 私たちが追い求めるのは、ナザレのイエスに倣って生きることです。

 私たちが求め、目指すものは常に、パーティーの歓喜、祝宴の喜びです。

 イエス様の栄光は、敵を滅ぼしたが故に与えられたものではありません。

 イエス様が神様から栄光を受けたのは、神様が世界を、「偉大な祝宴」、「大パーティー」へと導いていることを示したからです。

 イエス様が宣べ伝えた神の国は、すべての人が招かれて、満ち足りるまで飲んで食べて、歌って、踊って、心から喜び楽しむ大宴会です。

 イエス様の栄光は、神様がホストを務める大宴会の席にすべての人を招くというイエス様の夢に、「その通り、私がしようとしていることは、正にそれだ!」という神様からの応答です。

 敵を作り、恐怖によって人の心を支配しようとするこの世の政治に抗って、聖マーガレット教会が祝宴の喜びを生きるレジスタンスであり続けることができますように。