大斎節第1主日 説教

2026年2月22日(日)大斎節第1主日

創世記2:15-17; 3:1-7; ローマ5:12-19; マタイ4:1-11

 今日はA年の大斎節第1主日です。私はこのA年の大斎節第1主日の聖書日課こそ、聖書日課の完成形だと思います。

 その日に設定された教会の教え、教義が、聖書のテキストによって見事に証明されている、と思えるように、3つの日課が並んでいます。

 今日の聖書日課の前提にある教義は原罪論と救済論です。それは、すべての人は生まれながらに罪人なんだ、イエス・キリストは罪からの救い主なんだ、という教会の教えです。

 第1朗読の創世記2章15節から3章7節までの解釈が、第2朗読のローマの信徒への手紙5章12節から19節によって示されます。

 パウロは、第1朗読の内容を、人間が「罪に堕ち」、「死」が世界に入り込み、人は死ななければならないことになったと解説をします。

 そして福音書朗読の「荒野の試み」の物語によって、イエス・キリストが悪魔に打ち勝ったことを示す!非常に見事な展開です。

 ところが、大きな問題が一つあります。それは「アダムとイヴ」の物語が、パウロが解説しているようなものでは全然ないということです。

 衝撃的なことに、エデンの園を舞台にアダムとイヴと蛇と神が展開する物語の中で、本当のことを言っているのは蛇です。

 蛇が言った通り、男と女が善悪の知識の木から取って食べると、二人の目は開かれて、善悪を知るようになります。知識と知恵とを身につけたということです。

 蛇が言った通り、男と女が善悪の知識の木から取って食べた後も、彼らは死にません。

 アダムは祝福された生涯を送り(創世記5:2)、930年生きて、ようやく死を迎えます(創世記5:5)。

 旧約聖書の中で、神に祝福された者の代表格と見なされているアブラハムでさえ、175年しか生きていません(創世記 25:7-8)。

 子宝に恵まれ、長寿を全うしたアダムの生涯が、旧約聖書の典型的な、祝福された者の生涯であることは、疑いようがありません。

 神が「エデンの園」から男と女を追放したのは、彼らが「命の木」から取って食べたら、永遠の命を手に入れて、神々と同じになってしまうからです。

 神はアダムとイヴを園から追放し、炎の剣をまとったケルビムに、命の木への道のガードをさせることにした。そう言って、エデンの園の物語は終わります。

 要は、この物語は、人が永遠の命を手に入れそうになったところを、神がすんでのところで防いだ、という話しなんです。

 旧約聖書中のどこにも、最初の人アダムによって、罪が世界に入ったと語る箇所はありません。

 旧約聖書のどこにも、アダムとイヴが神に逆らったために、すべての人が死ぬようになったと語る箇所もありません。

 イエス様自身は一度たりとも、アダムに言及したことはありませんし、「人間は生まれながらに罪を犯す哀れな存在なんだ!」と言ったこともありません。

パウロは、「イエス・キリストは、全人類のために神が備えられた救いの道だ」と言いたかかった。その主張を展開するためのレトリックとして、彼は神話的人物であるアダムを引っ張り出してきました。

 ところが皮肉なことに、洗練されたパウロのレトリックは、後の教会指導者たちの関心を、偽りの悪の起源に向けさせることになりました。

 ポーリ・リクールというフランス人哲学者は、解釈学という領域で多大な功績を残した人で、多くの神学者たちにも影響を与えました。

 リクールの解釈学を、聖書解釈に適用した神学者も少なくありません。私も影響を受けました。

 そのリクールは、アウグスティヌスによって完成された「原罪論」を、悪を遺伝と見なす偽りの知識だと言って、徹底的に批判しました。

 悪の犠牲となって命を落としたイエス様が、世界に悪があることを知らなかったはずがありません。彼はこの世の悪の大きさを知っていました。

 そして、この世の最も大きな悪がどこにあるかも知っていました。それは今日の荒野の試みの物語に、良く描かれています。

 最も大きな悪は、経済と、政治と、宗教の中心にあります。なぜなら人々はそこで、もっとも力を追い求めるからです。

 人が力を追い求める時、悪は巨大になる。教会も、力を求めて帝国主義と結びついたからこそ、歴史の中で巨大な悪を積み重ね、今もそれは続いています。

 では、罪人や徴税人や遊女を初め、ありとあらゆる評判の悪い人たちの仲間になったイエス様は、悪と戦うことを諦めたのでしょうか?そうではありません。

 ナザレのイエスが悪と戦うために選んだ道は、神の恵みと慈しみに、人々の目を向けさせることでした。

 イエス様は、自分の言葉と生き方を通して、神様がすべての人の上に、恵みと慈しみを注いておられることを示しました。

恵みと慈しみに気づいた者の心にこそ、感謝が満ち溢れ得ます。その時こそ、悪の力は最小化されます。感謝の心こそが、人の中の暴力性を鎮めるんです。

 私たちが悔い改めると、神の恵みと慈しみが注がれ、祝福を受けるんじゃありません。

 「こんな私なのに」、すでに神の恵みと慈しみの中で生かされているんです。

 トランプやネタニヤフの上にすら、神の恵みと慈しみが注がれているんです!だからあんな奴らでも生きていられるんです!

 もちろん彼らは、神の恵みと慈しみに気づいていません。気づいていないから、巨悪の中に留まっています。

 力を追い求める限り、彼らが神の恵みと慈しみに気づくことはないでしょう。ですから私たちは、彼らが無力にされることを祈らなければなりません。

 私たちがナザレのイエスに倣う者として生き、神の国の豊かさと喜びと平和を指し示すコミュニティーになろうとするなら、力を求めてはいけません。

 私たちは、どうやったらイエス様のように、このコミュニティーの生き方を通して、恵み深く、慈しみ深い神様を、人々に現せるかと考えます。

 実は、先週の日曜日の現在堅信受領者総会で報告をしようと思っていて、忘れてしまった大切なことがあります。それは、聖マーガレット奨学基金の立ち上げです。

1年の歩みの中にも書きましたが、2022年の9月から、聖マーガレット教会でも、フード・パントリーの働きが始まりました。フード・パントリーというのは、廃棄されてしまう食材を引き取って、困窮する家庭に提供する働きです。

 開始当初、登録家庭は4つでした。それが昨年には14家庭に増えました。

 2013年のアベノミクス以降、日本社会の貧困化が急加速しました。物価は上昇に次ぐ上昇を続け、庶民の実質賃金は下がり続けています。

 かつては中流階級と呼ばれ、車を持って、家族で旅行に行って、子どもを大学へ行かせられた層は、毎日の食費や光熱費を切り詰めて、どうにか生活できるというところまで貧しくなりました。

 格差拡大と庶民の貧困化の中で、最も割を食うのは、一人親家庭を中心とした貧困家庭です。

 経済的理由で子どもが進学を断念するとか、学校を退学しなければならないという家庭が、これからも増え続けるでしょう。

 もし、聖マーガレット教会の繋がりの中で、そんな話が出て来た時に、子どもたちの教育をサポートしたい。学ぶことを諦めなくても済むように支えたい。

 そんな願いから、この聖マーガレット奨学基金を立ち上げることになりました。ぜひこの奨学基金をお支えください。

 私たちは、力を求める誘惑に抗って、ナザレのイエスに倣って生きることを求めます。

 今、飢えている人を招いて、共に食卓を囲むためには、どうしたらいいでしょうか?

 夢をもって、希望をもって日本にやって来たけれども、友だちもできず、差別的な言葉を浴びせられて、この国に自分の居場所は無いんじゃないかと絶望する外国人を、どうやって慰め、励ますことができるでしょうか?

 大きな苦しみに直面する人々の苦しみを、どうやって和らげることができるでしょうか?

 聖マーガレット教会教会が、こういうことを共に考えながら、イエス様と共に歩んで行く群れとして成長していけたなら、そこに神の国の希望の光が輝きます。