大斎節第2主日 説教

2026年3月1日(日)大斎節第2主日

創世記 12:1-4a; ローマ4:1-5,13-17; ヨハネ3:1-17

2月21日の土曜日に、早稲田の日本クリスチャン・アカデミー関東活動センターにお招きいただき、クリスチャン・シオニズムについての講演をしました。

その準備をしている時に、改めて気付かされたことが2つあります。

 一つは150年前に生み出されたキリスト教の「伝統」が、「今」の世界の方向性に決定的な影響を与えているということ、もう一つは、人々の「不安」に寄生して成長する信仰の危険です。

 この2つのことは、非常に密接に結びついています。1800年代の半ばに、アイルランド聖公会の司祭だったジョン・ネルソン・ダービー (John Nelson Darby)という人が、ディスペンセーション主義(Dispensationalism)と呼ばれる「伝統」を生み出しました。

 ディスペンセーション主義は、プロテスタント正統主義の派生系とも言える、「聖書の読み方」に結びついています。

 i) 聖書は預言の書であり、そこには世界の始まりから終わりまでが語られている。

ii) 聖書の物語のある部分は、ある歴史的段階に対応しており、神はそれぞれの歴史的段階にふさわしい人を選んで、世界に働きかける。

 iii) 世界は歴史の最終段階に入っており、神はユダヤ人をパレスチナに連れ戻し、彼らを通して世界に対して最後の働きかけをし、ついにキリストが帰ってくる。

 これが非常に大雑把な、ディスペンセーション主義の聖書の読み方です。

 ディスペンセーション主義を生み出したDarbyは、後に聖公会を離れて、プリマス・ブレザレン(Plymouth Brethren) という独立教会グループを導きます。

 そして、彼の薫陶を受けた宣教師や牧師たちが、世界中にディスペンセーション主義の教会を作りました。

 さらにダービーは、アメリカの福音派指導者たちに絶大な影響を与え、ディスペンセーション主義はアメリカ福音派にとっての「正統教義」となりました。

 この流れの中で決定的な問題は、西洋世界で、教会が語ってきた古い世界観が崩壊し、人々のキリスト教離れが進んでいるときに、ディスペンセーション主義の教会は、猛烈な勢いで成長をしたという、その事実です。

 人々は、真理に導かれ、聖霊の息吹によって、ディスペンセーション主義の教会に集まったのではありません。

 アメリカ独立戦争 (1775-1784)、フランス革命(1775-1784)、ナポレオン戦争 (1809-1815)を経たヨーロッパ世界には、終末的雰囲気が漂い、多くの人々が国の未来と世界の行く末に、不安を感じていました。

 ディスペンセーション主義は、「世界はすでに終わりのときに入った」、「まもなくキリストが帰ってくる!」、「キリストを迎える準備をしていなければ救いに与れない」、そう語って、人々の不安と恐怖心を栄養にして成長したのです。

 ディスペンセーション主義を、福音派の聖書の読み方を貫いているものは「反知性主義」です。ここにこそ、最大の危険が、「悪魔」が潜んでいます。

 興味深いことに、ダービーは進化論の提唱者であるダーウィンとほぼ同時代の人です。二人とも1882年に亡くなっています。

 しかしダービーは、自然科学によって見出される真理に対して、まったく無関心でした。

 アメリカの福音派の神学校や教会は、進化論反対運動の牙城となり、その状態は今に至るまで続いています。

 先日、学校である方と話をしているときに、自分は高校生のときに洗礼を受けたいと思ったことがあったけれども、クリスチャンになることを諦めた、という話を聞きました。

 その方は、2人の子供たちを、小学校のときからキリスト教系の学校に通わせている方でもあるので、私は思わず「何で?」と訊いてしまいました。

 彼女は高校生時代に、1年間、オーストラリアに留学していて、ホスト・ファミリーが熱心なクリスチャンだったそうです。

 そこで彼女は、「聖書には神様が人を造られたと書いてある。だから進化論は間違っているんだ。聖書が言っていることを信じられなければ、クリスチャンにはなれない」、そう言われたんだそうです。

 「クリスチャンになるっていうことは、科学を拒否するほど、強い決意を必要とすることなんだ。それじゃあ、自分はクリスチャンにはなれない」。

 それが、彼女が高校生の時に、洗礼を受けて、クリスチャンになることを諦めた理由でした。

 キリスト教が直面している最大の危機は、ガリレオとダーウィンとヴェルハウゼンの後に、反知性主義を乗り越える、新しい信仰の言葉を見出せていないことにあります。

 その副作用も甚大です。Big Bangを否定し、進化論を否定し、聖書の著者は人間だという事実を否定し、知的な自殺を強要するキリスト教が、人々の不安と恐れに寄生し、巨大化し、世界を危険に晒しています。

 ダービーの時代から今に至るまで、同じパターンが繰り返されているんです。

 私は、教会のメンバーが増えることを望んでいます。イエス様に倣い、神の国の民として生きる者の数が増し加わることを、心から望んでいます。

 しかし教会の成長は、ナザレのイエスを再発見することによって起こるべきものです。

 もし私たちの信仰が、真理に背を向け、知性の放棄を要求するものであるなら、それは恐怖心につけ込んだ洗脳に過ぎません。

 シオニズムに洗脳された人々が、今この時も、全世界の平和の敵となり、戦争の種を蒔き、爆弾を落とし、人々の命を奪い続けています。

 知的な自殺を要求し、真理を拒否し、人々の不安と恐れに偽りの安心や、偽りの慰めを与えるキリスト教は、徹底的に解体されなくてはなりません。

 迷信的キリスト教を放置しておいたらダメなんです。それを放置してきたがために、イランに対する戦争も始まったんです。

 教会が生きている「今」、「現在」は、過去から「引き継いできたもの」、「伝統」の上にあります。

 往々にして伝統は、「ずっと昔から」、「使徒たちの時代から」と言って、「変化しないこと」、「不変不動性」を、そして「永続性」を強調します。

 しかし、変化の可能性の無いところに、「聖霊の息吹」が働く余地はありません。なぜなら聖霊は、私たちの「当たり前」を、「古い認識」を揺り動かすからです。

 「変わらないこと」に安心感を求める誘惑は、教会の指導者たちにも働きます。

 人々の恐れと不安に漬け込み、知的自殺を要求するカルト的キリスト教の伝統は、そこから生まれます。

 神は真理の源です。ですから、真理を否定するところに聖霊は働きません。

 敢えて新約聖書の言葉を使うなら、真理を否定するところで働くのは、命を破壊する霊、悪霊です。

 だから私たちは、常に、新たに、ナザレのイエスという神秘に出会い直すことを通して、新しく生まれ続けなくてはならないのです。

 新しく生まれ続けなければ、新しい命がないからです。 イエス様との出会いは、ニコデモの認識を、古いモノの見方を揺り動かしました。

 そして彼は後に、イエス様の弟子となったことが、ヨハネ福音書の19章に記されています。

 ナザレのイエスとの出会いによって私たちもニコデモとなり、聖霊の息吹を受けて、真理を喜び生きる、新たな信仰の言葉を語る者たちとされますように。