大斎節第4主日 説教

2026年3月15日(日)大斎節第3主日

Iサムエル16:1-13; ヨハネ9:1-41; ヨハネ9:1-41

イエス様は、今日の福音書朗読の物語の中で、生まれつきの盲人の目を開き、見えるようにしました。

 見えなかった人が見えるようになる。それは素晴らしいことです。見えなかった目を見えるようにする、それも素晴らしいことです。

ブラック・ジャックのような凄腕の医者が、生まれつき見えなかった子どもの目を手術して、見えるようにした。そんな話が世に知れたなら、それは賞賛と感嘆をもって迎えられるのではないでしょうか。

 ところが今日の物語の中では、目が見えるようになった男も、この男の目を開いたイエス様も、共に非難に晒されています。

 今朝の福音書朗読箇所の中で、とても興味深い点の一つは、イエス様が唾を吐いて、泥を作り、それを盲人の目に塗ったというところです。

 ヨハネ福音書は、イエス様の神格化がもっとも進んだ福音書です。そこに、極めてヨハネ福音書らしからぬイエス様の行動が描かれているのはなぜでしょうか?

 それは、イエス様が律法を破っていたということを明確にするためだと、私は思います。

 ただ目に触れただけだったら、あるいは「開け」という言葉を発しただけで、男の目が見えるようになったのなら、「イエス様は安息日の規定を破っていない」と言うこともできるでしょう。

 けれども、唾を吐き、土をこね、泥を作って、それを目に塗ったとなったら、もう「イエス様は安息日に仕事なんかしていません」とも、「安息日の規定を破ってなんかいません」とも言えません。

 ちなみに「唾を吐く」(πτύω)というギリシア語は、新約聖書全体の中で、3回しか出て来ません。後の2回は、もっともイエス様の神格化が進んでいない、マルコの福音書(7:33; 8:23)にしか出て来ません。

 さて、こうして、イエス様が律法を破って、安息日に働いた結果として、生まれつきの盲人の目は開かれ、見えるようになります。

 けれども、神殿崩壊後のユダヤ人社会で、新たなエリートとなったファリサイ派の人々は、イエス様を通して癒しの力が働いたことも、生まれつきの盲人が見えるようになったことも受け入れません。

さらに、目が見えるようになった男も、ユダヤ人社会から、会堂から、追放されます。そして、その時初めて、目を開かれた男は、イエス様の姿を見出します。

 今日の福音書朗読の物語は(も)、神様が「律法」の枠組みを超えて働くことを描いています。

 サマリア人とユダヤ人にとって、神様は「律法の境界線」の中で働くはずでした。

 サマリア人とユダヤ人は、恵みと祝福は、律法を守る人たちに与えられると信じていました。

 ところが、サマリア人が、ユダヤ人が、「絶対的だ」と思っていた律法という境界線を、イエス様は乗り越えてしまいます。

 そして神様の力が、律法を乗り越えるイエス様を通して働きます。

しかしファリサイ派の者たちは、自分たちが作り出したシステムの中に、自分たちのモノの見方の中に、神様を押し込めておこうとします。

 そして彼らは、イエス様が目を開けた男を「罪人」にして会堂から追放し、盲目の中に留まることを選びます。

 このファリサイ派の人々の姿は、古い枠組みの中に収まらない世界の現実を、自分たちが設定した境界線を越え出て働かれる神を、無理やり古い枠組みの中に押し込めて、自らを盲目にする人間の姿を描いています。

 それは、今の日本の姿にも、没落を続ける教会の姿にも重なっていないでしょうか。

「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と言い続ける限り、私たちは盲目状態に留まります。なぜなら、それは人の苦しみを正当化し、永続化されるための論理だからです。

 人の苦しみを正当化し、苦しみの上にさらに苦しみを増し加え、自分たちの富や特権を、神の祝福だと語る者たちこそが、最も大きな、世界の苦難の原因です。

 苦しみを正当化する人間の闇こそ、もっとも深いこの世の闇です。

 1971年から2021年の間に、アメリカを中心とする西洋世界は「テロとの戦い」や「共産主義との戦い」の名の下に、152の国に経済制裁を課し、3,800万人の命を奪いました。その半分以上の犠牲者は子どもたちです。(‘Effects of international sanctions on age-specific mortality: a cross-national panel data analysis,’ Lancet Glob Health 2025; 13: e1358–66)

 この数字は、軍事介入による犠牲者の数を含んでいません。

 アメリカがイランに爆撃を開始したその日、昨年の大斎研修で取り上げたJeffrey Sachsというコロンビア大学の経済学者は、国連安保理の会合に出席していました。

彼はそこで、イランを攻撃し、女子学校に爆弾を落とし175人の生徒たちを殺害したアメリカに対する非難の言葉を一言も発せずに、攻撃されているイランを非難する西洋諸国の代表たちの異様な姿を見ていました。

 「中東のテロリストと正義の守護者なる西洋」という神話は、完全に崩壊しました。

 それでも、トランプ推しのどこかの首相は、来週ワシントンを訪れ、3月19日には「ゴールデン・ドーム・ミサイル防衛システム」構想への参加を表明するそうです。

 これは、「私たちもアメリカの帝国主義戦争に参加します」という宣言に他なりません。

 西洋の教会も、自分たちのキリスト教が生み出した植民地主義と、その延長に過ぎない戦後世界秩序という欺瞞に、どう向き合うべきか、未だ分からずにいます。

 この世の力のある者たちの側に着き、塩気を失った教会の中に、人々がイエス様の語った神様の姿を見出すことはありません。

 盲目のままでいることを選ぶのか。それとも目が開かれることを選ぶのか。私たちも大きな岐路に立たされています。

 人は、見えるようになることを恐れます。今まで見えなかったものが見えることは、慣れ親しんできた世界を失うことを意味するからです。

しかし、それは解放の時でもあります。生まれつきの盲人は、自分たちが作り上げて来た伝統を、自分たちのものの見方を絶対化する集団から追放された時、初めてイエス様の姿を見ることになりました。

 彼はそのときに初めて、見えていないのに、見えていると言っている者たちの闇から解放されました。

 イエス様の姿を見ることができるようになったなら、私たちはイエス様と共に歩み始めることができます。

 イエス様と共に歩むなら、私たちもイエス様と同じように、苦しめられて来た人たちと共に食卓を囲み、深い病に冒された世界を癒す者、神の国の共同建設者とされます。

 私たちの常識を超えて働かれる神様が、この世で力を握る者たちから追放され、イエス様に出会う勇気を、私たちに与えてくださいますように。