









2026年03月22日(日)大斎節第4主日
エゼキエル37:1-14; ローマ8:6-11; ヨハネ11:1-45
今日の福音書朗読に登場する、マルタとマリアは、教会界隈では、間違いなく有名人です。ところが今日の物語の主人公の一人である「ラザロ」は、非常にミステリアスな人物です。
マルタ、マリア、そしてラザロという名前は、ルカ福音書とヨハネ福音書にしか出てきません。この事実は、福音書を研究する学者たちにとって、非常に大きなチャレンジをもたらします。
私たちは、福音書というテキストの歴史的研究と文献学的研究を通して、福音書のテキストに相互依存関係があることを知っています。
マタイの福音書とルカの福音書の著者は、マルコ福音書を最重要資料として用いています。マルコ福音書にあるエピソードの多くが、マタイの福音書にも、ルカの福音書にも出て来るのはそのためです。
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に同じエピソードがある場合、10中9、オリジナルはマルコの福音書版です。
マルコには無くて、マタイ福音書とルカ福音書にだけ共通する物語群は、研究者たちが「Q」(ドイツ語のQuelle)と呼ぶ資料から取られています。
それに対して、ヨハネ福音書は唯我独尊の福音書です。ヨハネ福音書とルカ福音書の間には、テキストの相互依存関係は無いと考えられています。
そうしますと、ヨハネ福音書とルカ福音書の背後に、マルタ、マリア、ラザロという3人の名前に結びついた、独立した伝承(tradition)が存在していたということになります。
皆さんが「マルタとマリア」という名前を聞いた時に思い出すのは、ルカ福音書10章に記された物語でしょう。
イエス様と弟子たちをもてなすために、姉のマルタは忙しく働いているのに、妹のマリアはイエス様の足元に座って、彼の話に聴き入っています。
手伝いをしようとしない妹に苛立ったマルタが、「私だけが働いているのになんともお思いにならないんですか?妹にも手伝うように言ってください」とイエス様に文句を言います。
するとイエス様が、マルタは多くのことに気を遣っているけれども、必要なことは一つで、マリアは良い方を選んだのだと言う。そういうお話です。
ところが、ルカ福音書10章のマルタとマリアの物語の中に、ラザロの姿はありません。
ではルカ福音書の中で、ラザロはどこに出てくるのかと言いますと、16章19節から31節の「金持ちとラザロの物語」の中に出て来ます。
贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、全身できものに覆われた貧乏人のラザロが死ぬと、金持ちは陰府の炎の中で苦しみ、ラザロはアブラハムの懐に抱かれ、この世の立場が逆転することを語る物語です。
マルタとマリアは、ヨハネ福音書の11章から12章まで続く物語の中でも、姉妹として登場します。
今日は読まれませんでしたが、12章の舞台設定は夕食の場面で、そこには「マルタは給仕をしていた」(12:2)という言葉が出て来ます。
妹のマリアは、この夕食の場面で、「純粋で非常に高価なナルドの香油」をイエス様の足に塗って、自分の髪でその足を拭った、そう書かれています。
マルタとマリアが登場するルカ福音書とヨハネ福音書の物語は、全く別の、全く筋書きの違う物語ですが、マルタとマリアの伝承が、食事の場面に結びついていたことが、はっきりと見て取れます。
他方、ラザロの方ですが、ルカ福音書の中でも、ヨハネ福音書の中でも、彼は一言も語らず、何の行動もしません。
ヨハネ福音書の物語の中でも、ルカ福音書の物語の中でも、ラザロは人としての性格(character)を持ち合わせていません。人物像が全く見えないんです。
けれども、表面上、全く異なるルカ福音書とヨハネ福音書の物語の中で、「ラザロ」という名前は、「死と命」、あるいは「死の向こう側の命」に結び付けられています。
恐らく、ヨハネ福音書の著者は、食事の場面に結びついたマルタとマリアの伝承と、「死の向こう側に現れる命」に結び付いたラザロの伝承を結びつけて、新しい物語を生み出したのでしょう。
ヨハネ福音書の著者は、ユダヤ人たちがイエスを殺そうと企んだことを、繰り返し繰り返し語ります(5:18; 7:1; 10:31; 11:53)。
今日の福音書朗読の少し後、11章の53節には、イエス様がラザロを甦らせたその日から、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうと企んだと書かれています。
ヨハネ福音書の著者にとって、「死者」は「眠っている者」です。「眠っている」という表現は、死んだ者たちが、再び「起こされる時」を待っている、復活を待ち望んでいることを示すたメタファーです。
そしてヨハネ福音書は、イエス様が、死を超えて、その向こう側で、新たな命を与える方であると宣言しています。
死んで4日経ったラザロをイエス様が起こし、命へと呼び戻す今日の物語は、イエス様において、終わりの時への期待が、すでに実現していることを表しています。
復活の命は、ナザレのイエスにおいて、すでに現れたのです。
ところが祭司長とファリサイ派の人々、ユダヤ人社会のエリートたちは、ラザロを再び命へと呼び起こしたイエス様を亡き者にしようとします。
そしてユダヤ人死の向こうに与えられる命の希望を体現したラザロのことも、殺そうとします(v 53)。
命を守ろうとする者が危険人物やテロリストになり、命を奪う者たちが平和の使者と言われる、おかしな時代になりました。
広島と長崎に原爆を落とした国の大統領が、それを笑いのタネにし、その男の前で、原爆を落とされた側の国の首相が、「私は、世界中に平和と繁栄をもたらせるのは、ドナルドだけだと思っています」という。
その異常な光景が、もはや日常の当たり前の出来事のようになっている現実。
それは、ナザレのイエスを殺そうとする世界の現実であり、命を守り、命を育み、命を生み出す者を殺そうとする者を殺そうとする、闇の力の現れなのでしょう。
尊敬する言語学者の友人とメイルのやり取りをしていたとき、医学系の大学に進んだ息子さんの卒業式に参加した時に感じたことを書いてくれました。そこには、こうありました。
‘Why saving lives and killing lives are so close, so easy.’「なぜ、命を救うことと、命を殺すことは、こんなにも近く、こんなにも簡単なのか」。
先週、20日の金曜日には、立教女学院小学校の卒業式があって、式の後には、小学校の食堂で、保護者の方々が企画してくださった祝会に参加しました。
閉会のお祈りがそこでの私のお役だったので、今年度の6年生と共に捧げる最後の祈りの前に、私はこうお願いをしました。
「皆さんは今日で、立教女学院小学校を卒業します。でも、どうか、祈ることを卒業しないでください。皆さんは、過去80年の中で、最も大きく世界が変わっていく時代を生きています。争いの波がどこまで行くのか、どこで止まるのか、そして闇がどこまで深くなるのか、誰にもわかりません。だからこそ、仲間と共に祈ってください。全体がおかしな方向に向かい、闇が深くなる時には、一人になる勇気をもって、祈ってください。神様は祈りの中で、皆さんの進むべき道を示してくださいます。そして、皆さんを、闇を照らす光としてくれます。」
卒業生たちに向かって語ったこの言葉は、聖マーガレット教会で、皆さんと共に捧げる祈りから出て来たものです。
今日もここに共に集まり、祈りを捧げるこの時、ナザレのイエスが示された命の道が私たちに示されます。
そして、世界の闇が深まっていく中で、命を育み、命を救うために生きることを願うお一人お一人の存在は、闇の中に輝く希望の光です。
聖マーガレット教会というこのコミュニティーを、神様がここに与えてくださっている、そのことの故に、今日、この時、心からの感謝と讃美を捧げます。
