復活前主日 説教

2026年03月29日(日)大斎節第5主日・受難の典礼
イザヤ書 50:4-9a; フィリピ2:5-11; マタイ27:1-54

2月18日から始まった長い大斎節最後の日曜日を迎えました。今度の日曜日がイースターとなりますが、今週の木曜日から金曜日までは、1年に1度だけの礼拝が続きます。

木曜日の19時半からは、イエス様が「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えたことを記念する、洗足の礼拝が行われます。

互いの足を洗い合った後に、共に食卓を囲みます。この日は、すべての礼拝参加者が、一緒に食べます。

翌日の金曜日の12時、正午からは、イエス様が十字架にかけられ、苦しまれたことを覚える礼拝が捧げられます。SKさんが司式を、TMさんがお話をしてくださいます。

土曜日の19時からは、イエス様が死から命へと移されたこと、「新しい過ぎ越しの出来事」を記念する、イースター・ヴィジルの礼拝があります。

ぜひ、年に1度しかない礼拝に足を運び、聖公会という教会が持っている、「礼拝の豊かさ」を経験してください。

さて、今日、大斎節第5主日の礼拝は、教会歴に沿って行われる主日礼拝の中で、一番大掛かりな劇仕立てになっています。

11時からの礼拝は、1階のホールに集るところから始まります。
私たちは木の枝や棕櫚の葉を手に持って、エルサレムに入っていくイエス様を熱狂的に迎える群衆の姿を演じます。(「ユダのわらべの、ほめしイエスに」と歌いながら、聖堂に入ってきます。)ここまでの部分は、「棕櫚の典礼」と呼ばれます。

ところが聖堂に入ってきたところから、今度は「受難の典礼」が始まり、礼拝の雰囲気は、一気に暗転します。暗くなります。

この日の礼拝は、意図的に、私たち自身を、熱狂の内にイエス様を迎え、一週間後には手のひらを返したように、「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆と一つになるように設計されています。

しかし、イエス様のエルサレム入場の歴史的な現実は、私たちが福音書から受け取る印象とは、かなり異なっているはずです。

当時のエルサレムの人口は、4万人から6万人程度で、過ぎ越しの祭りの期間には、それが約4倍の20万人以上に膨れ上がったと言われます。

イスラエルの民がエジプトからの解放されたことを祝う過ぎ越しの祭りは、ローマ帝国支配への不満と結びついて、容易に暴動に発展しえます。

暴動が起きたならば、それを直ちに鎮圧するために、普段はエルサレムから百キロ以上も離れた地中海沿岸のカエサリアにいる総督ピラトが、ローマ軍を率いてエルサレムに入城し、駐留しました。

それに比べて、イエス様のエルサレム入城の出来事というのは、非常につつましやかなものだったでしょう。
イエス様をエルサレムで「熱狂的に」迎えたのは、イエス様の弟子たちと、ガリラヤからやって来たイエス様推しの集団だけです。

過ぎ越しの祭りのために、世界中からやってくる大部分のユダヤ人にとって、ナザレのイエスは、まったく無名の人です。

そうしますと、イエス様を熱狂的に迎えたイエス推し集団と、「十字架につけろ」と叫び始めた集団とは、同じ人たちではなかったはずです。

しかし、イエス様を熱狂的に迎えたイエス推し集団と、イエス様を十字架につけろと叫んだ集団が別であるとしても、「群衆」を飲み込む闇の問題は残ります。

イエス暗殺計画の首謀者たちは、祭司長たちや長老たちに代表される、神殿当局者たちです。

そして、イエス様を十字架につけろと最初に叫ぶ人々は、この神殿当局者が買収した人たちです。

CIAやモサドが送り込んだ「反政府系集団」が、中南米や中東で政権転覆を企てるのと同じような構図です。
つまり、イエス様を十字架につけるために、中心的に動いているのは、神殿当局者と、彼らに買収された、煽動家たちです。

ところが、その少数者が画策した煽動に、群衆が同調します。それは、少数の生徒による一人をターゲットにしたいじめが、全クラスが加担したいじめに発展するようなものです。

繰り返しますが、エルサレムに入ってきたイエス様を熱狂的に迎えるイエス推し集団と、イエス様を「十字架につけろ」と叫び始めた集団とは、別の集団です。同じ人たちではありません。


けれども、そこに居合わせる群衆が、「十字架につけろ」と叫ぶ者の側に流れ、そしてイエス様は実際に十字架にかけられ、殺されてしまうんです。

そこに、私たち自身の内に潜む、群衆心理の闇があります。

なぜ、少数の人間が企む巨悪を、「群衆」は止められないのでしょうか?
なぜ、クラスの数人が始めたいじめを、その他の多くの生徒たちは止められないのでしょうか?

なぜ、ネタニヤフとトランプとその取り巻きたちの狂気に、群衆が飲み込まれていくのでしょうか?

無辜の民が、死に価するような罪を犯していない者が、殺され続けている。それは、イエス様の十字架刑が、今なお反復されているということです。

パレスチナ、レバノン、イラン、ベネズエラ、キューバで、人々の命が犠牲にっているのは、今もイエス様が十字架の上にかけられているということです。

私たちがするべきことは、「イエス様、私のために十字架にかかって死んでくれてありがとう」と言うことではありません。

イエス様が語った神の国に、イエス様の十字架の場所はないんです。

祝宴の食卓に現れる神の国の中には、処刑場も戦場もありません。神の国の第パーティーの場には、イエス様を十字架にかけようとする人も、イエス様を十字架にかけろと叫ぶ人もいません。

イエス様が私たちを招いておられる、神の国の民としての生き方は、イエス様を十字架にかけない生き方です。

 神の国の民として生きる者は、ネタニヤフのためにも、トランプのためにも、高市のためにも、誰一人死なせはしないと言う人です。

イエス様を十字架の上で殺すことを可能にした、群衆の闇は、私たちの恐れに寄生します。

しかし神様は、ナザレのイエスを死から起こして、恐れに寄生する闇を照らす光としてくださいました。

 「恐れることはない。あなたたちは、すでに、闇を照らす光を持っているのだから。」イエス様を死から起こされた神様が、そう言われます。

神の国の食卓に招かれた私たちが、恐れから解放され、イエス様を十字架にかけない生き方をする者とされますように。