













2026年4月12日(日)復活節第2主日
使徒言行録 2:14a,22-32; Iペトロ1:3-9; ヨハネ20:19-31
今朝の福音書朗読で読まれた物語の主人公トマスは、私たちのために与えられた、復活の証人です。
トマスの物語を通して、ヨハネ福音書の著者がしようとしていることは極めて明確で、それはこの言葉に集約されます。
「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(29)
気の毒なトマスは、毎年、復活節第2主日に「疑り深いトマス」として、信仰の反面教師として登場します。
しかしJesus Movementは、十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスが、弟子たちの前に出て来てしまったがために始まりました。
先週もお話ししたように、最初の復活の証人たちは、皆、女性たちでしたが、彼女たちを含め、イエス様を知っていた人の誰一人として、イエス様が墓から出てくるとは思っていませんでした。
マグダラのマリアも、他の女性たちも、そして12使徒を含めた男の弟子たちも、「死から新しい命に起こされたイエス様」を見てしまったので、イエス様は復活したんだと信じました。
ですから、別にトマスだけが特別、疑い深かったわけではありません。
さて、トマスの前に復活のイエス・キリストが現れる物語ですが、実はヨハネ福音書にしかありません。
ヨハネ福音書は、新約聖書の中に収録されている4つの福音書の中で、一番新しい福音書、最後に書かれたれた福音書です。
ヨハネ福音書が書かれた時には、第一世代の復活の証人は一人も残ってはいません。第一世代の復活の証人というのは、新しい命に起こされたイエス様を見た人です。
恐らく第1世代の言葉を聞いた、第2世代のJesus followersたちも、ほとんどいなくなっていたでしょう。
つまり、ヨハネ福音書の教会には、復活のキリストの証人もいなければ、彼らから直接、イエス様の話しを聞いた人たちもいないんです。
だからこそトマスは、復活のイエス・キリストを見たこともないし、生前のイエス様を知っている人たちの話しを聞いたこともない人たちのための「復活の証人」として立てられたんです。
ヨハネ福音書の著者は、トマスを通して、復活のキリストを見ることなしに信じる者たちの群れを励まそうとしています。
ここにいる私たちも、誰一人、新たな命に起こされたイエス様を見てはいません。
復活のキリストを見ることなく「この道」に入る私たちにとって、「トマスの疑い」は、信仰の歩みにとって絶対不可欠なものです。
たとえ私たちが、「全知全能で、完全な神を信じています」と言ったところで、信仰もまた、間違いを犯し、勘違いをし、時には嘘もつく、不完全な人間の営みであることに変わりはありません。
聖書も、教義も、伝統も、信仰に関わるすべては、人間の言葉ですから、そこに神の完全性はありません。
そうである以上、私たちもトマスに倣って、大いに疑うべきです。信仰の中に、疑いの余地を残しておくべきです。
私はかつて、聖書や正統教義を疑って、キリスト教が誤っているということになったら、もう信仰を保てなくなり、救いから漏れるんじゃないかと恐れていました。
しかし、私の不安や恐れは、イエス様が語られた神様と、何の関係もありませんでした。
正しいことを信じていると救われると主張することは、自分の脳が自分を救うと言うのと同じことです。
しかし、死を超える命の希望は、聖書の絶対的な正しさにあるのでもなければ、正しい教義にあるのでもありません。
それはただ、十字架にかけられて殺され、墓に葬られたナザレのイエスを、神様が新たな命に起こされ、女性たちの前に現された、そして「トマスにも」現されたところにあるのです。
この「イースターの出来事」にこそ、「死が最後の言葉を握っているのではない」(‘Death does not hold the last word’)という私たちの希望があります。
これが、聖マーガレット教会というコミュニティーの真ん中にある希望、この世を去った者たちと、この世に残って旅を続ける私たちとを一つに結びつけている一つの希望です。
変わり続ける世界の中で、イエス様を通して神様が示された希望を生きる共同体であるために、私たちは教会に対して、キリスト教に対して向けられる疑いと真摯に向き合いながら、聖霊の息吹を受けて、新しく生まれ続ける必要があります。
最後に、私が尊敬する一人の天体物理学者(astrophysicist)の言葉を紹介して、この説教を閉じさせていただきます。
それは、ブラック・ホールの姿を撮影することに成功した世界初のプロジェクト、‘Event Horizon Telescope’の提案者であり、この国際的プロジェクトのリーダーの一人である、Heino Falckeの言葉です。
彼は敬虔なクリスチャンでもあるのですが、Light in the Darknessという自伝的書物の中で、信仰と懐疑との関係について、こう語っています。
「まさに科学の進歩に懐疑が重要な役割を果たしているように、疑いは私の信仰の重要な要素なのです。信仰にとっての経験的土台は人生です。だからこそ私は、自分の人生と信仰とを、絶えざる批判に委ねます。今日、これほど多くの人々が教会に対して疑いを抱いているのは、自分たちのことを十分に疑わない教会があるからではないでしょうか。」
トマスに倣い、大いに疑いながら、歴史の特異点であるイースターの出来事に希望を置くコミュニティーとして、共に旅を続けましょう。
