ハワーワス読書会 Resident Aliens pp. 28-34.

ゆっくりと読み進めているので、ようやく1章を読み終えて2章目に突入しました。昨日読んだ箇所から、重要なポイントを箇条書きします。

もとはまったく気取らない英文なのに、日本語にした途端に硬くなってしまい、英語と日本語との距離がどれほど遠いのかを痛感させられます。

  • もし世界がクリスチャンであるなら、教会のことなど気にしなくてもいい。回心も、解毒(罪の赦し)も、変革も必要ない。p. 28.
  • コンスタンティヌス以降に作り出され、維持されてきた世界は崩壊した。p. 28.
  • すべては再検証されなければならない。これまで(教会が提供してきた)古い回答の失敗は、広島の原爆の火とダッハウのガス室の光に照らされてさらに明らかとになり、新たな問いを必要としている。p. 28.
  • キリスト教はほとんど政治的な事柄である。p. 29.
  • 「福音の一部となるようにという招きは、寄留民によって受け入れられ、教会と呼ばれる新たなポリスとしての抵抗文化現象に参与するようにという、喜ばしい招きである。」p. 29.
  • イエスが突きつけるチャレンジは、神がどのように私たちと共におられるのかを語る物語によって形作られる奇妙な共同体に対して、いかにして忠実であれるかという政治的ジレンマである。p. 29.
  • リベラルな教会も保守的な教会も、あるいは個人主義的教会も公的教会も、社会倫理においてコンスタンティヌス主義であり、迎合主義である。p. 32.
  • どちらも誤って、アメリカの教会の最も重要な社会的使命は、アメリカ的民主主義を支えることだと思っている。p. 32.
  • こうして彼らは、知らず知らずのうちに、教会を破壊する道徳的前提を裏書きしているのである。p. 32.
  • 私たちの社会は、ニーズを判別し、正しいニーズを識別し、正しい方法でニーズを行使するには役に立たない、巨大な欲望のスーパーマーケットとなった。p. 32.
  • この巨大な欲望のスーパーマーケットは、自分の欲するものを何でも肯定し、選択することができるほど十分に自由であるなら、どのようなニーズは満たすに値するもので、どのような根拠に基づいて正しい選択をすることができるかという問いを、永遠に回避することができるという前提の上に立っている。p. 32
  • 我々が「自由」と呼ぶものは、欲望の専制となった。p. 32.
  • 「個人」に与えられたステータスは、救いとは神の家族における政治的、社会的現象なのだというキリスト教概念を理解不能にしてしまう。我々の経済は政治に連動している。資本主義は、「権利/人権」が主要な政治的アジェンダとなる環境において繁栄する。教会は、(キリストの)体へと結びつける個人の回心を生み出すための鍛錬の場になるよりも、むしろ個人的充足を促す、今一つの消費者志向の組織と成る。pp. 32-3.
  • 我々の社会は、一人一人が自分自身の暴君とななれるのが良き社会であるという前提の上に築かれている。 p. 33.