International Youth Eucharist Service?

6月の第4日曜日、24日に、12回目のユース聖餐式が行われました。

今回はかなりインターナショナルな顔ぶれとなりました。普段も香港からの留学生と、韓国からの留学生がレギュラーで参加していますが、今回はさらにイングランドからRosanne、オーストラリアのシドニーからNorikoとRoger、CAJ (Christian Academy in Japan) からRikoが初参加。ちなみに、RosanneとNorikoとRogerはAnglicansです。

今回のテキストはIコリント5:12-20、ヨハネ15:11-17です。

「みだらな行いをさけなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはおはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Iコリント5:18-20)

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:17)

ショートメッセージ

  • 結婚にとって「愛」は本質的なものではない。クリスチャンは結婚していようが、していまいが、互いに愛し合うようにとイエス・キリストに命じられているのであって、クリスチャンは「結婚していてさえ、相手を愛さなければならない」。
  • 教会には、「愛があれば性的関係があってもいい」などという考え方は存在しない。もし「愛」が「性的関係」を意味するなら、教会のメンバーたちはすべて互いに性的関係を結ぶことになる。「愛すること」とSEXの間に本質的繋がりはない。
  • ローマ帝国では、ただ快楽のために性的関係を結ぶことも、その結果としてできる子どもを中絶することも、遺棄することも、倫理的に問題のない行為とされていた。

ディスカッションのテーマ

  • 教会はキリストに結ばれた一人の男と一人の女の結婚という枠の中でした、性的関係を持つことを認めなかった。それはなぜか?

今後の課題

  • 快楽のために関係を持つとき、「相手」は自分にとって何なのか?
  • 教会において、結婚は結婚するふたりのためにあるのではない。では何のため?そして誰のため?