顕現後第五主日説教

10 Feb 2019 

実は10年ほど前まで、私はmixiというブログ・サイトにアカウントを持っていて、たまにそこに日記を書いていました。今はもうmixiにアカウントは持っていませんが、その時に書いたものは全部書き出して、保存してあります。

その中の一つ、2009年2月3日に書いた日記には、私が「プレゼント」について思い悩むようにったことが、長々と記されていました。

この日記を書く背景には、二つの出来事がありました。ひとつは、伴侶の誕生日プレゼント探しに失敗したことでした。

伴侶の誕生日は1月の終わりで、その約ひと月前の12月の終わり頃、プレゼントを探して街の中を歩き回ったのですが、何も買えずに帰って来てしまいました。「これはいいかも」と思ったものはいくつもあったものの、似たようなモノを彼女はすでに持っていて、結局、プレゼントにふさわしいモノを何も見つけられませんでした。

日記の背後にあったもう一つの出来事は、夫婦で「Always 三丁目の夕日」という映画を見たことでした。

この映画のクライマックスに近いところに、吉岡秀隆(ひでたか)扮する茶川竜之介という売れない作家が、小雪扮する石崎ヒロミという一杯飲み屋のママにプロポーズをする場面があります。

貧乏作家の茶川は、ヒロミに結婚指輪のケースを差し出して、ゆっくりとケースを開きます。ところが、ケースの中には何も入っていません。彼はこう言葉を搾り出します。「すまん。この通りだ。金が、その、、、箱しか買えなかった。でも、すぐ、この中身はすぐ、オレの原稿がもう少し高く。。。」こう言ったところで、ヒロミが茶川の言葉を遮ってこう言います。

 「付けて。その、いつか買ってくれる指輪、付けてよ。」

すると茶川は、いつかケースの中に収まるであろう指輪を取り出し、ヒロミの左手の薬指にゆっくりとはめます。ヒロミは左手を電球にかざして、「キレイ」と囁きます。それは息を呑むほど美しいシーンで、私たち夫婦は思わず大泣きしました。

空の指輪ケースに込められた想い、それが指し示す意味は、「欠乏」や「貧しさ」という文脈が無ければ、決して表わし得ないものです。

貧しい時代、プレゼントという「モノ」は、受取手に対する贈り主の「想い」、「気持ち」、そして「愛情」のシンボルであり得ました。しかしモノに溢れたこの時代には、プレゼントが本来担う意味を、モノに託すということは、ほとんど不可能なほどに難しくなりました。そして、過剰な物質的豊かさは、神様の祝福から、私たちを遠ざけています。

今朝の福音書朗読は、漁師であったシモン・ペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネが、舟も網も、すべてを捨ててイエス様に従ったという有名な話です。ペトロとヤコブとヨハネは、彼らの失敗、彼らの不足、彼らの欠乏の真っ只中で、予想もしない祝福を味わい、イエス様と共に旅を始めます。

シモン・ペトロとイエス様が会ったのは、これが最初ではありません。ルカ4章の38節から41節には、イエス様がペトロのしゅうとめを癒した記事があります。ところが、ペトロのしゅうとめを癒して欲しいとイエス様に頼んだのは、ペトロ自身ではなく、他の人たちでした。

更に、イエス様がしゅうとめの病を癒した後も、ペトロはイエス様に対して無関心でした。群衆が、「神の言葉」を聞こうとしてイエス様の周りに押し寄せているとき、ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネは、夜通しの漁が完全な失敗に終わり、一匹の魚さえ捕らえられなかったことに打ちひしがれながら、網を洗っていました。

ペトロは、イエス様の話を聴くつもりなどありませんでした。しかし予想外のことが起こります。イエス様がペトロに、押し寄せる群衆に話すために、舟を出し欲しいと頼んだのです。ペトロはイエス様の願いを聞き入れ、イエス様を舟に乗せて、一晩中懸命に働いたにも関わらず、何一つ成果の無かった湖に、再び漕ぎ出します。

イエス様が群衆に語り終えたとき、イエス様は、舟を沖に漕ぎ出して、漁をするようにとペトロに命じます。日が高く昇った後に網を下ろす漁師などいません。日が昇った後、魚は危険を避けるために深みに逃れて、そこから動きません。最大の敵である鳥が活動しない日暮れから明け方まで、魚は餌を求めて水面近くに上がってきます。その時こそが漁の時間です。

しかしペトロは、イエス様の言葉に従って、これまでにしたこともない馬鹿げたことを実行に移しました。日が昇った後の湖で、網を打ったのです。

そこでシモン・ペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネが経験したのは、予想外の祝福でした。誰も考えもつかない、あり得ない、馬鹿げた祝福が、彼らを襲ったのです。そして、その馬鹿げた祝福が、彼らを捕らえました。イエス様の言葉に従って網を降ろしたとき、彼らはそれまでに経験したこともない成功を収めます。

そして彼らのビジネスがもっとも成功したその日、これまで経験したこともないほどの多くの魚を引き上げた日に、彼らは舟も網も捨てて、何が起こるのかも、行き先も知らぬまま、イエス様と旅を始めました。

神の祝福に満たされるためには、私たちの内にも欠乏が、渇きが無ければなりません。教会は、「人間をとる」ために、主が作られた舟です。教会の使命は、物質主義と商業主義の精神に冒された人々のニーズに仕えることではありません。商業主義と物質主義にどっぷりと浸かった教会は、人々の心を神から遠ざける、この時代精神を増長してきました。

教会は再び、イエス・キリストの言葉に聞き従い、これまでにしてこなかったような、馬鹿げたことをすることを学ばなくてはなりません。そのときこそ教会は、イエス・キリストの福音によって、本当のニーズに気づかない人々の目を開き、誤ったニーズを捨てさせ、神の祝福で満たすための欠乏を、人々の中に確保することができます。

それは4世紀の偉大な神学者アウグスティヌスが、「私たちの魂は、あなたのうちに憩いを見出すまで、安らぐことはありません」と告白した、同じ欠乏であり、渇きです。

先週、7日の木曜日、聖三一教会で教役者研修会があって、高橋新主教も交えて、教区の今後について話し合いました。小グループに分かれての分かち合いのとき、私のグループにいた司祭の一人がこう言いました。

東京教区にはすべてがある。組織もあり、立派な聖堂もあり、お金もあり、人もまだいる。「無いのは信仰だけだ。」

願わくは、東京教区の教会に連なる私たち一人一人が、失敗した者、欠乏する者、渇く者として、主の前に立ち、主の声に聞き、これまでしたこともないような馬鹿げたことをし、私たちの思いをはるかに超える神の祝福を、味わい知る者とされますように。