復活:世界の命を癒す神の働き

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4月12日 イースター

キリスト・イエスを通して出会ったすべての人々へ

主の平安が皆さんと共にありますように。

例年通りであれば、この復活日にはいつもの倍以上の人が教会に押し寄せ、「ご復活おめでとうございます!」、「イースターおめでとう!」と互いに挨拶を交わしていたはずです。そして、今年のイースターには5名の方の洗礼式も予定されており、聖堂は喜びに溢れるはずでした。

しかし神が創造された世界は、私たちがイースターに歓喜の声を上げることを拒絶しました。

マーガレット教会は、「すべての被造物を愛し守るために」というテーマを掲げて、大斎節の時を過ごそうと計画していました。ところが、大斎節が始まる前から、被造物はすでに人類に対する反逆の声を上げ始めていました。

今年1月、中国の武漢で原因不明の肺炎による死者が急増しているという報道が世界を駆け巡ると、世界中でアジア系の人々に対する排斥感情が湧き上がり、アジア系の人々に対する差別発言や暴力事件が多発しました。

ところが3月に入ると同時に、状況は一変します。新型コロナウイルスの感染拡大の中心は、まずヨーロッパに、その後、アメリカへと移ります。日本が。日本が大斎節第4主日を迎えた3月22日、イタリアでは1日で6千人を超える人々が新型コロナウイルスによって命を落としました。4月11日現在、ヨーロッパ全体の感染者数は83万人を超え、約7万1千人の人々が命を落としました。

大斎節に入って間もない3月1日、アメリカの新型コロナウイルス感染者は僅か75人でした。しかし1ヶ月後、3月31日の感染者数は20万に迫り、4千人を超える人々が亡くなりました。それから僅か10日後の4月10日、アメリカの感染者数は約50万3千人を数え、死者の数は2万人に迫りました。

そしてこのイースターの主日、世界の感染者数は172万を超え、10万5千人以上の方々が命を落としました。今や世界のどこにも、新型コロナウイルスの安全地帯は存在しません。新型コロナウイルス感染症は、全人類にとっての脅威として、私たちの前に立ちはだかっています。

しかし私は、スコットランドで世話になった友人が facebook に投稿した記事を読みながら、新型コロナウイルスが人類にとっての脅威だというのは、事実の半分に過ぎないのではないかと思わずにはいられなくなりました。

彼が投稿した記事には、こう書かれていました。

誰が書いたにしろ、これはまったく正しい。

目を覚ますと、眠りについたときの世界はもはや無く、別の世界にいた。

突如、ディズニーランドの魔法は解け、パリはロマンチックな街でなくなり、ニューヨークはもはや立ち上がらず、万里の長城は要塞の役をなさず、メッカはもぬけの殻となった。

あっという間に、抱擁とキスは兵器に変わり、両親や友人を訪問しないことが愛の行為となった。

そしてお前たちは気づく。権力も美しさも金も無価値で、お前たちが喘ぎ求めている酸素をもたらしてはくれないことに。

世界は美しく、これまで通り生き続ける。ただ人間どもをカゴの中に収めただけだ。

私は世界が我々にメッセージを送っているのだと思う。

「お前は不要だ。空気も、地球も、水も、空も、お前たちがいなくても大丈夫だ。もしお前たちが戻って来るのなら、お前たちは私の客人に過ぎないことを思い出せ。主人ではないのだ。」

この散文のメッセージは明白です。過去1世紀以上に渡って世界に破壊の限りを尽くしてきた人類は、世界にとっての脅威であり、世界は人類という脅威に対して立ち上がり、戦いを挑んでいるというのです。

皮肉なことに、世界中で都市封鎖が起きても、世界を破壊することで利益を得てきた人々は、自宅待機という贅沢を享受することができます。しかし、この贅沢を享受できない無数の貧しい人々の命が、都市封鎖によって危機に晒されています。

世界を飛び回り、全世界に感染を広げた富める者たちは、自分を守るために、きれいな水と十分な食料を確保して、安全な家の中に引き籠ります。他方、スラムや路上で生活する貧しい人々には、マスクや消毒薬は愚か、清潔な飲み水もその日の食料もありません。奴隷のように働いて日銭を稼ぎ、どうにかその日の糧を得る最も貧しい人々は、都市封鎖の結果、水も食料も無しに、ゴーストタウンとなった街に放り出されました。

緊急事態宣言が出された東京でも、新型コロナウイルス感染症によって最も危険に晒されているのは、経済的に最も貧しい人々であり、その人々の姿は私たちの目から隠されています。仕事を失い、食べるものを買うことができず、家賃や公共料金の支払いができなくなる人たちがいます。逃げ場を失い、暴力に晒される子どもたちが、女性たちがいます。繰り返しますが、自宅待機は豊かな者だけが享受できる特権です。

旧約聖書を書いた人々は、いくつもの破滅をくぐり抜け、壊滅的出来事の中に神の声を聴き取ろうとしました。北イスラエルの滅亡、南ユダの滅亡とバビロン捕囚、セレウコス朝シリアによるエルサレム神殿の蹂躙、そしてローマ帝国によるエルサレム神殿の破壊などです。

聖書を書いた人々は、破滅的出来事の後に、自ら問いかけます。破滅はなぜ訪れたのか。破滅の後、神はどのように再生の業を成してくださるのか。そして、新たな破滅をもたらなさいために、私たちはどのように生きるべきなのか、と。

恐らく私たちにも、同じように問いかけ、悔い改め、そして新しい生き方を見出すことが求められているのでしょう。

人類の脅威として立ち現れた新型コロナウイルスは、今一度、世界が一つであることを私たちに示しています。「自分の国だけが」と考える「リーダー」たちは、世界がこの脅威を乗り越える妨げとなり、解決を長引かせます。

神は今まさに、世界を通して私たちに語っておられるのではないでしょうか。私たちの生き方が、その存在の仕方そのものが、神が造られた世界に対する脅威となっているという現実を、私たちに突きつけてはいないでしょうか。

キリスト・イエスの復活は、世界の命を再生する、神の再創造の業です。そしてクリスチャンは、イエス・キリストによって神の国の民とされ、この働きに召され、世界の傷を癒すために自らの生き方を変えようとする人々です。

世界の命の再生に参与するよう召されたクリスチャンが、貧しい人々の命を搾取し、世界を破壊しながら、ひたすらに便利さと快適さと物質的豊かさを追求して生きるなどということができるはずはありません。

100年に一度のこの危機を乗り越え、再び主の御名によって共に集まり、祈りと讃美とをささげる時が来ることを、心から祈り待ち望みます。しかし私たちが再び共に集まるときは、「今までと同じ」ではあれないでしょうし、同じであってはいけないはずです。

すでに墓の中から甦えられた主が、私たちを、世界の命を再生し、世界の傷を癒す働き人としてくださいますように。

被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。(ローマ 8:20-24)