











4月6日 聖木曜日 (Maundy Thursday)
私たちは今晩、年に一度しか行われることのない、特別な典礼、礼拝のために集まっています。この聖木曜日は、英語ではMaundy Thursdayと呼ばれます。
以前にもお話をしたことがありますが、私がこの言葉を初めて聞いたのは、AberdeenのSt Ninian’s Churchにいたときの私のボスだった、Joanからです。
「Maundy ThursdayにJohnは来られるの?」と聞かれて、「Maundy Thursdayって何?」と聞き返しました。すると、聖週、Holy Weekの木曜日をそう呼ぶのだと教えてくれたのですが、なぜそう呼ぶのか、 ‘Maundy’ の意味は何かという質問には、「私も知らない」という答えしか返ってきませんでした。
しかし’Maundy Thursday’の由来は、2017年に聖マーガレット教会の牧師になって、最初の聖木曜日を迎える準備をしているときに、Oxfordの英語辞典が教えてくれました。
まず、’Maundy’ の語源はラテン語の ‘mandatum’ 「命令」という言葉です。英語の ‘commandment’ とか ‘mandate’ と同じ語源です。
そして、この木曜日が ‘Maundy Thursday’ 「命令の木曜日」、あるいは「掟の木曜日」と呼ばれるのは、今日の典礼、洗足の場面と結びついています。
イエス様が弟子たちの足を洗ったという話は、ヨハネ福音書にしか出てきません。イエス様がすべての弟子たちの足を洗い終わった後、彼は弟子たちにこう命じます。
「14 主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
これは「互いに足を洗い合う」ことの勧めではありません。借金を返さなくてはならないのと同じように、そうする義務を負っているという強い命令です。そしてこの命令は、ヨハネ福音書13章34節でこう繰り返されます。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
この命令を聞いて、「なんて美しい命令をイエス様はお与えになったのでしょう!」と思ったとすれば、それは恐らく、イエス様が語っている「愛」という言葉を誤解されているのでしょう。
イエス様が語る愛に、ロマンチックな要素はまったくありません。「愛し合え」ということは、「足を洗い合え」ということです。
足を洗うのは奴隷の仕事ですが、どの奴隷も一番したくない仕事が、足を洗うことでした。
十二弟子の誰一人として、イエス様の足を洗ったことはありません。しかし福音書の中にはたった二つだけ、イエス様が足を洗ってもらう話があります。
一つは今日の福音書朗読の前、ヨハネ福音書12章で、ラザロとマルタの姉妹、マリアが、イエス様の足に香油を塗って自分の髪でその足を拭ったという出来事です。
もう一つは、ルカ福音書の7章で、イエス様がファリサイ人の家に招かれて食事をしているときに、罪深い女性がイエス様の足を涙で濡らし、その足を髪で拭ったという話です。
ヨハネ福音書とルカ福音書の場面設定と女性の名前は互いに異なりますが、もともとは一つの伝承を、それぞれの著者が別の物語に仕上げたのでしょう。
イエス様が弟子たちに与えた「新しい命令」、「新しい掟」に関して、もっとも驚くべきことは、「女性が私にしてくれたことを、お前たちは互いにするように」とイエス様が言っていることです。
繰り返しになりますが、福音書の中に、イエス様の足を洗った男性は出てきません。イエス様の足を洗ったのは女性です。足を洗うという行為は、イエス様の周りにいた男たちからは、まったく評価されません。それは「無駄なこと」や、「罪悪感から出る行為」とみなされています。
しかしイエス様は、男たちが「無駄なこと」、「罪悪感の成せる業」と見なすその行為を、「互いにするように」と強く命じます。
ヨハネ福音書の原著者は、聖餐式にまったく関心がありませんでした。彼にとって、キリストの弟子たちが絶対にするべきことは、足を洗い合うことでした。だからヨハネ福音書では、洗足の物語が、最後の晩餐の話に取って代わっているのです。
さて、私たちはこの聖木曜日の聖餐式を、イエス様が聖餐式を「制定した」記念として行っているわけですが、それはヨハネ福音書13章に描かれている「洗足」の物語の意図からは、大きく外れていると言わざるをえないでしょう。
さらに皮肉なことに、イエス様はここで「互いの足を洗い合う」ようにと強く命じているにもかかわらず、その命令は教会の歴史の中でサクラメントにならないばかりか、完全に忘れ去られることになりました。
プロテスタントの正統教義に従って言えば、福音書の中でイエスが弟子たちに「するように」と命じたことが「聖典」、サクラメントにならなくてはならないはずでした。しかし主流派のプロテスタント教団の中から、「洗足」をサクラメントにするべきだという声は上がりませんでした。
この一つの事実も、キリスト教とイエス・キリストは同じではないことをよく物語っています。
教会の「教義」や「正統的」伝統の中にも、半イエス的なものが沢山あるのです。そして、この日の洗足の典礼は、教会がイエスの命令に従って発展してこなかったことを、毎年私たちに示してくれています。
男たちが「無駄なこと」と、「罪悪感の成せる業」と軽蔑する行為を、イエス様が絶対的な命令として弟子たちに与えた。それは、男たちの支配を、暴力によって人々を抑えつけ、踏み躙り、殺害し、そして支配することを止めるようにという命令です。
イエス様は、男たちの暴力によって支配する世界には、決して平和は訪れないことを知っておられたのです。
どうかこの夕べ、この典礼の魂に触れてください。
年に一度、単なる儀式として、ロシア正教会の総主教キリルがプーチン大統領やその太鼓持ちたちの足を洗ったところで、そんなものが平和を作り出すわけではありません。偽善としての儀式は、人の心を変えるどころか、むしろ偽りの謙遜によって人をより傲慢にし、平和の敵を生み出します。
イエス・キリストはどのような共同体を作り上げるために私たちを呼ばれたのか。
イエスの運動は、Jesus Movementは、どのような人間を生み出さそうとしているのか。
自分はどのように仕えることができるか。それがどのように永遠の命に繋がっているのか。
これらのことを思い巡らせながら、互いの足を洗い合いましょう。