









2023年12月25日(日)降誕日聖餐式 II, III
イザヤ 52:7-10; ヘブライ 1:1-4: ヨハネ 1:1-14
クリスマスの街ベツレヘムには、毎年、世界中から多くの人々が訪れ、大々的にクリスマスを祝う礼拝が行われます。
しかし今年は、ベツレヘムのすべての教会が、クリスマスを祝う礼拝を中止することを決定しました。
今年、ベツレヘムにある福音ルーテル・クリスマス教会では、破壊し尽くされたガザの様子を象徴する瓦礫の山の中に、イエス様の降誕の場面を表す nativity sceneが置かれました。
幼な子イエスはパレスティナ人男性が頭に巻くカフィエと呼ばれる布に包まれたて、瓦礫の間に寝かされています。見えるところにマリアとヨセフの姿はなく、もしかすると、瓦礫の下に埋もれているのかもしれません。イエス様を探しにやって来た羊飼いと東方の博士たちは、瓦礫に阻まれて、イエス様がいることろまで近づくことができません。
ベツレヘムですべてのクリスマス礼拝が中止になったというニュースと共に、この nativity scene の写真が世界中を駆け巡りました。
ムンデール・イサーク (Munther Isaac) 牧師は、実際にガザで殺されている子どもたちよりも、この nativity scene が注目されていることに困惑します。
クリスマスの街が、深い闇の中で、クリスマスを祝うことなくクリスマスの時を過ごしている。そんな中で、私たちは今日、このクリスマスの日を迎えています。
先ほど読まれた福音書朗読の中には、2つのエピソードがあります。イエス誕生のエピソードと、羊飼いたちのイエス訪問です。
ルカは、ローマ皇帝アウグストゥスとシリア州総督キリニウスに言及して、イエス様誕生の物語を始めます。
これによってルカは、誰が人々を飢えさせる者であり、暗闇の創造者であり、人々を死の影の中に座らせる者たちであるかを示しています。
1節から7節のエピソードの中では、ヨセフとマリアは住民登録のためにベツレヘムに向かったことになっています。しかし、それは歴史的にはあり得ないことです。
住民登録は徴兵と徴税のために行われるので、登録は必ず居住地で行われます。歴史的に言えば、マリアとヨセフは居住地であるナザレで住民登録をしているはずですし、イエス様の実際の出身地はナザレのはずです。
イエス様が生まれた頃、メシアの到来を待望していたユダヤ人たちの中には、メシアはダビデの子孫で、ダビデの出身地であるベツレヘムから出る考えている人が沢山いました。
ルカ福音書の著者と、それからマタイ福音書の著者は、そう言う人たちを納得させるために、イエス様をベツレヘム出身ということにしたのです。
実は、イエス誕生のエピソードの中で本当に重要なのは、イエス様が生まれた場所ではなくて、マリアとヨセフの経済状態と社会的位置づけです。
7節の、「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」という部分は、原文のギリシア語では「宿に彼らの場所は無かった」、あるいは「宿に彼らのための場所は無かった」となっています。
私たちは聖書のテキストよりも、圧倒的に降誕劇に馴染んでいるので、マリアとヨセフが家畜小屋に泊まることになったのは、宿の部屋が全て埋まっていたためだと思っています。しかし、恐らくこの箇所のテキストは、マリアとヨセフは部屋代を払えないから、宿屋に泊まれなかったと言おうとしているのだと思います。
ルカはこの直後の箇所で、マリアとヨセフが、初子の聖別のいけにえとして、ひとつがいの山鳩か2羽の家鳩を献げようとしていたと書いています。山鳩と家鳩は、いけにえとして献げる動物の中で、最も安い、最も価値のない動物でした。
ですから、ルカが、マリアとヨセフを、イスラエル社会の最底辺に置かれた、貧しい夫婦として描いていることは確かです。
続いてルカは、8節から20節のエピソードの中で、貧しく取るに足らない者、忘れられた存在に焦点を当てます。
ルカが、救い主の誕生の知らせを聞く最初の人として選んだ羊飼いたちは、ローマ帝国からも、イスラエル社会からも忘れられた存在です。
羊飼いたちは、住民登録の対象になりませんでした。彼らはローマ帝国にも、イスラエル社会にも、存在しないことになっている人々なんです。
その上、彼らが夜通し、寝ずに番をし、世話をしている羊たちは、彼らの財産ではありません。羊飼いたちは、資産家の財産管理を任され、最低賃金で働く請負い労働者なのです。羊飼いたちに羊の番を任せている金持ちたちは、羊飼いを汚れた存在と見做して軽蔑し、嫌っていました。
羊の世話を任された羊飼いたちは、律法の掟に従って生活することなどできません。彼らは羊のリズムに合わせて、羊と一緒に生活をしているわけですから、毎日決まった時間にお祈りをすることも、安息日に仕事を休むこともできません。そのために羊飼いたちは、律法に従って生活をしない、汚れた、神に呪われた存在とみなされていたのです。
しかしルカは、その羊飼いたちこそ、世界で最初のクリスマス・パーティーのゲストとして、神様に呼ばれたと言うのです。
マリアとヨセフ自身も、そして、生まれたばかりのイエス様のもとを訪れた羊飼いたちも、ザカリアの賛歌に歌われる「暗闇と死の陰に座している者たち」であり、マリアの賛歌における低い者、飢えた人です。
しかし神は、貧しい夫婦のもとに生まれた、誰の子かもわからない幼な子によって、「暗闇と死の陰に座している者たち」を照らし、「低い者」を引き上げ、「飢えた人」を良いもので満たすことにされました。
こうして神の救いの業は、貧しくされている者たち、この世の支配者たちに忘れ去られ、存在しないかのように扱われている人たちの中から始まったのです。
私たちは、「こんな深い闇に沈んだ世界の、一体どこに希望があるんだ!」そう言いたくなるかもしれません。
目の前で行われている巨大な悪を前にして、何もできないことに、絶望的な気持ちになり、打ちひしがれるかもしれません。
それでも私は、この深い闇の中に希望があると信じています。
私は、神がイエス・キリストを通して、マリアとヨセフと羊飼いの間で始められた救いの働きが、世界からその存在を忘れられ、苦しみを忘れられていたパレスティナの人々の中で、日本の社会の中で存在しないかのように扱われている人々の中で、今も続いているとを信じています。
クリスマスの街、ベツレヘムで、クリスマスが祝われない今年のクリスマスが、イエス・キリストという希望の光を、世界から忘れられた人々の中に見つける時となりますように。
