顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 説教

1月7日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日

創世記 1:1-5; 使徒 19:1-7; マルコ 1:4-11

今日は主イエス洗礼の日ということになっていますが、バプテスマのヨハネについて4つの福音書が語っていることを詳しく見比べてみると、行間と言いましょうか、あるいはテキストの空白が、実に多くのことを語っているということに気づかされます。

マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、イエス様が洗礼を受けたことを書いています。

ところが、ヨハネ福音書にはイエス様が洗礼を受ける場面はありません!この事実に初めて気づいた時、私は本当に驚きました。

ヨハネ福音書はバプテスマのヨハネにこう言わせています。

「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

マタイ、マルコ、ルカの福音書では、細部に違いはあるものの、天が開いて聖霊が鳩のように降ってくるという描写は、イエス様の洗礼の場面に結びついています。

ですから私は、ヨハネ福音書にも、当然、イエス様の洗礼の話があると思い込んでいました。しかし、ないんです!イエス様が洗礼を受ける場面が、ヨハネ福音書にはないんです!

この異常事態に気づいたとき、私は大慌てで、マタイ、マルコ、ルカ福音書のイエス様の洗礼の場面を読み返してみました。

すると、まずマタイは、イエス様が洗礼を受けようとしてバプテスマのヨハネのところに来た時、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、思いとどまらせようとしたと書いています。

ルカは、ヘロデ・アンティパスにバプテスマのヨハネを捕らえさせて、牢獄に放り込んだ上で、イエス様に洗礼を受けさせます。つまり、ルカは、誰がイエス様に洗礼を授けたか言わないんです。

私はこの時初めて、福音書の著者たちは一同に、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたという事実に、非常に困っていたということにも気づくことになりました。

まず、バプテスマのヨハネが「罪の赦し」のためのバプテスマを授けていたことは歴史的事実です。バプテスマのヨハネが語っていた「罪の赦し」というのは、「魂が罪の汚れから清められて天国に行ける」という話とは、まったく関係がありません。

バプテスマのヨハネは、間も無く「主の日」が訪れ、神の審判によってこの世の支配者たちとその仲間たちは滅ぼされ、神の支配、神の国が到来すると信じていました。

彼が語る「罪の赦し」というのは、主の日の神の審判の時に滅びを免れるということでした。

バプテスマのヨハネのもとにやってきて洗礼を受ける人たちは皆、公に罪を言い表す必要がありました。

「私は徴税人で、これまで、規定の金額の倍を徴収し、半分は自分のポケットマネーにしていました」とか、「私は律法で禁じられている高利貸しで荒稼ぎをしてきました」とか。

要は、これまで神の掟にそむく行為をしてきたけれども、今後は足を洗いますと表明することが、洗礼を受ける条件でした。

そして、バプテスマのヨハネから洗礼を受けるということは、彼の弟子集団に加えられて、彼が展開していた神の国運動の運動員になるということでした。

そしてイエス様も、このバプテスマのヨハネから洗礼を受けたわけです。これも歴史的な事実です。

とすると、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受ける時、イエス様も「罪を告白した」ということです。(中世であれば、私はこの後、ただちに火あぶりの刑になります。来週ここにいないことは確実です。)

もしイエス様が、「いや、私は神の子なんで、罪から自由なんです」と言ったとしたら、バプテスマのヨハネは、絶対に、イエス様に洗礼を授けませんでした。

しかしイエス様は、罪を告白して、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて彼の弟子となり、バプテスマのヨハネの神の国運動の運動員になりました。ちなみに、弟子になるということは師匠の権威の下に自分を置くということでもあります。

恐らく皆さんはもう、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたという事実に、福音書を書いた人たちが困っていたという意味がお分かりだと思います。

福音書の著者は皆クリスチャンです。イエス様の弟子であり、イエス様がメシアだと信じる人たちです。彼らは皆、自分たちのメシアがバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼の弟子になったということは、イエス様はバプテスマのヨハネよりも下だということになるじゃないかと思ったわけです。

その結果、恐らく福音書を書いた人たちだけではなくて、1世紀のほとんどすべての教会指導者たちが、バプテスマのヨハネをイエス様の下に置くための理屈を捻り出さなければならないと思ったわけです。

そして、ここが今日の説教のポイントですが、私が皆さんにお願いしたいことは、ナザレのイエスに出会うために、彼が展開した神の国運動の原点を知るために、教義をとりあえず脇に置いてくださいということです。

「イエス様に原罪は無いのだから、罪を告白するはずはない」とか、「すべての者がイエスの名の下に膝を屈めるのであって、イエス様がバプテスマのヨハネの権威の下に自分を置くことなどあり得ない」といった話を、とりあえず忘れてください。

教義を振り回して、それを守ろうとすればするほど、私たちは自己正当化に走ります。自己正当化に走れば走るほど、人は暴力的になり、平和の破壊者になります。

そうすると、イエス様の姿も見えなくなって、イエス様が語った神の国のインパクトも感じることができなくなります。

イエス様が罪を告白して、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたことは歴史的事実です。イエス様がバプテスマのヨハネの弟子になって、バプテスマのヨハネの神の国運動に加わったことも歴史的事実です。

ところがイエス様は、バプテスマのヨハネと訣別して、独自の神の国の運動を展開するようになります。イエス様は、バプテスマのヨハネの神の国じゃダメだと思ったということです。

バプテスマのヨハネの神の国は、端的に言えば、意志が強くて、掟の命じる通りに、正しく生きられる人だけが入れてもらえるところです。

それ以外の者たち、ほとんどの人たちは、悔い改めにふわさしい実を結べない、役立たずとして滅ぼされてしまいます。

けれども、パリピー(パーティー大好き人間)のイエス様にとって、神の国は、神様がすべての人を招いてくれる祝宴、大パーティーでした。

神様が、「さあ、みんな、食べて、飲んで、踊って、楽しもう!」そう言ってすべての人を招いてくれる大パーティーでした。

パーティーに参加するための唯一の条件は、すべての参加者が料理の支度も手伝って、給仕もするということでした。

イエス様は、最初からそのようなものとして神の国を捉えていたわけではありませんでした。イエス様も、最初からすべてわかっていたわけではないんです。

バプテスマのヨハネから学び、そして自分の宣教活動を支えてくれた女性たちから学ぶことを通して、イエス様はすべての人が神様に招かれる大パーティーとしての神の国を見出し、これを新たな神の国の運動として展開しました。

私たちもイエス様から学びながら、暴力に傷つく世界に喜びと平和をもたらすために、死の影の中に置かれた人々を招く祝宴の共同体として成長していくことができますように。