












12月29日 降誕後第1主日(C年)
サムエル上2:18-20,26; コロサイ3:12-17; ルカ2:41-52
21年前の夏、私たちは家族で清里に旅行に行きました。家族旅行と言っても、その時にはまだ、私たち夫婦と長男のトキワだけしかいませんでしたから、3人での旅行でした。今日は詳しいことをお話しする時間はありませんが、実は、この旅行が、私たち家族が聖公会に移るキッカケとなりました。
私たちが泊まったのは、貧しい家族に優しい、安くて食事の美味しいペンションだったんですが、1日目に、聖アンデレ教会を見に行きました。
ところが、アンデレ教会にいる時に、当時まだ3歳だったトキワが迷子になりました。一人で歩き回っていたのですが、目の届くころにいるので大丈夫だろうと思っていました。目を離した隙に姿が見えなくなり、慌てて辺りを探し回りました。すると、私たちがいたところとは正反対の方向に、全速力で「ママー、パパー」と泣きながら走って行くトキワの姿が見えました。追いかけて行って、「トッキー、こっちー!」と後ろから叫ぶと、「どうしていなくなっちゃうの~」と言いながら駆け寄ってきました。
子どもは、自分で動き回って迷子になっても、自分はいるべきところにいるのに、大人が勝手にいなくなると思うらしい、ということを、この時学びました。
今日の福音書朗読は、両親と一緒にエルサレムに上って行ったイエス様が迷子になって、両親と親類たちが探し回るお話しです。
この話は、ルカ福音書版の、「イエス誕生物語」の締めくくりの役割を果たしています。
福音書の著者たちは、意図をもって物語を作ります。彼らは、物語を生み出すことによって、何かをしようとしているのです。
物語がどんな意図を持って語られたのか、比較的容易に読み解くことができることもあれば、非常に難しいときもあります。時には、まったく意図が読み取れないような話もあります。
今日の福音書朗読の物語は、その意図を読み解くことが、かなり難しいケースです。
私は、この物語を解読するヒントは、マルコ福音書の3章21節から35節にあると思っています。
マルコ3章21節から35節は、「ベルゼブル論争」と呼ばれるところです。エルサレムからやって来た律法学者たちから、「あいつはベルゼブル、悪霊どもの親分の力で、悪霊を追い出しているんだ!」とイエス様がディスられるお話です。
実は、マルコの福音書は、イエス様の血縁の家族が、彼をとっ捕まえに来たという文脈の中に、この「ベルゼブル論争」を位置付けています。
物語の導入にあたる3章21節には、こうあります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。」
31節にもこうあります。「イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」
マルコ福音書の中では、イエス様と血縁の家族とは、終始、敵対的です。血縁の家族は、イエス様の宣教活動を最初に妨害する者たちであり、彼が語る神の国に敵対する人々です。そこには、イエス様と彼の血縁の家族との歴史的現実が反映しています。
イエス様の血縁の家族は、生前、イエス様が神の国の福音を宣べ伝えていたときには、その運動に加わらず、むしろ、それを止めさせようとしていました。
母マリアも同じです。イエス様が十字架につけられたとき、彼の宣教活動を支えた女性たちはそこに居合わせましたが、母マリアはいませんでした。
ところが、ナザレのイエスが復活のキリストとして弟子たちの前に現されて、Jesus Movementの共同体が生まれ、それが爆発的な勢いで発展していくと、そこに母マリアとヤコブと何人かの兄弟たちも加わります。
母マリアとヤコブをはじめとするナザレのイエスの兄弟たちが、どのタイミングでエルサレム教会のメンバーになったのかは分かりません。確かなことは、血縁の家族が Jesus Movement に加わったことで、共同体の中に対立が生まれたことです。
当初はペテロがエルサレム教会の指導者だったのに、いつしかイエスの兄弟のヤコブにその地位を奪われ、ペテロは巡廻伝道者となったようです。
イエスの兄弟ヤコブが率いるようになったエルサレム教会とパウロが開拓した教会との間にも、対立がありました。
ルカ福音書の著者(=使徒言行録の著者)は、12歳の少年イエスが、エルサレムからの帰路についた家族に加わらず、神殿に残ったという物語を通して、マルコとヤコブとパウロの間を調停しようとしているようです。
実際、話の舞台はエルサレム、「主の兄弟ヤコブ」が指導的立場に躍り出た教会のあるところです。
マルコ福音書は、ナザレのイエスが始めた神の国運動の中に、血縁が持ち込まれることを認めません。そうであれば、マリアとヤコブと他のイエス様の兄弟たちを、Jesus Movement の中に受け入れる余地はありません。
しかし、現実には、マリアとヤコブと兄弟たちは、すでにエルサレム教会に加わって、影響力を持つようになっていました。
イエス様の宣教活動を止めさせようとし、敵対してきた家族が、Jesus Movementの成功を見て、ちゃっかりとそこに便乗し、しかも大きな顔をしている。それを腹立たしく思っている人も、決して少なくなかったでしょう。
イエス様との血縁関係を盾に、エルサレム教会で幅を利かすヤコブのことを、パウロも腹立たしく思っていました。ルカはパウロ門下ですから、パウロの怒りをよくわかっていたでしょう。
けれども、ルカ福音書の著者は、マルコ福音書のように、イエス様と血縁の家族を徹底的な対立関係として描くことは回避したいと思っていました。
ですから、ルカ福音書の著者は、マルコ福音書のベルゼブル論争の物語を自分の福音書に取り入れておきながら、イエス様の気が狂ったと思って、家族が連れ戻しに来るという部分は、完全に削除しています。
しかし彼は同時に、Jesus Movement が血縁に支配されてはならないことも分かっていました。
12歳の少年イエスが、家族を離れてエルサレム神殿に残る物語は、イエス・キリストを血縁の家族から切り離して、父なる神に結びつける物語です。
この物語は、血縁の家族が、イエス様を、Jesus Movementを、自分のコントロールの内に囲い込むことはできないことを語りつつ、同時に、血縁の家族がイエス様と一緒にいることも認めます。
つまり、生前、イエス様の神の国運動に反対し、敵対した血縁の家族「すら」も、Jesus Movementの中に受け入れられるということです。しかし血縁関係が Jesus Movement を支配することもあってはならない。
そう語ることによって、ルカは、パウロによって立てられた教会と、エルサレムの教会と、血縁の家族が幅を利かせている教会から出て行こうとしているエルサレム教会のメンバーたちとを、和解させようとしているのでしょう。
これはいつの時代の教会にとっても、重要な指針となるべきものだと思います。
Jesus Movementの中で、血縁は相対化されなければなりません。教会の中で、血縁が幅を利かせるようなことがあってはなりません。
かと言って、神の国のパーティーに参加することが、家族との絶縁を意味するわけでもありません。
むしろ私たちの家族も、友人も、知人も、あらゆる人との関係が、神の国の祝宴の中で一つとされて、隔ての壁が崩れ去るような共同体、それこそ私たちが目指すものです。
世を照らすまことの光、ナザレのイエスが、そこへ向かって、私たちを歩ませてくだいますように。
