主イエス命名の日 説教

2025年1月1日(水)主イエス命名の日

民数記6:22-27; ガラテヤ4:4-7; ルカ2:15-21

皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。このようにして、皆さんと共に祈りと賛美を捧げることをもって、新たな年の歩みを始められることを、感謝しています。

 新年早々ですから、今日は説教も短めに切り上げて、礼拝後には早々に帰宅して、お正月をゆっくり過ごしていただきたいと思います。

 さて、教会の暦では、この日は「主イエス命名の日」ということになっていますが、イエス様が誕生から8日後に割礼を受けて、その時にイエスと名付けられたと語っているのはルカ福音書だけです。

ルカ福音書の著者は、イエス様の誕生を劇的に描いてはいます。しかし実際には、彼も私たちと同じように、普通に、母マリアのお腹から生まれてきました。

 生まれた途端に自分の足でスックと立ち上がって、「私は世界を救うために、罪の生贄として十字架にかけられて死ぬために生まれてきました。でも、3日後には必ず復活します。」なんて言ったはずはありません。

彼も、生まれ出た時には、大声でギャーギャー泣いたでしょうし、おしっこもすれば、ウンチもしたはずです。「イエス」という平凡な名前も、自分でつけたわけではなく、親につけられたものです。

そして彼は、ナザレのイエスとして、普通の人として、成長をしていきました。

 彼が、神の国の福音を宣べ伝えるようになるまでの間には、普通の人として、色んなことを考え、悩み、試行錯誤を繰り返したはずです。

一旦はバプテスマのヨハネの教えに共鳴し、彼から洗礼を受け、弟子になります。しかし、ヨハネの教えにも、教団の生活にもついていけなくなって、早々に挫折します。

バプテスマのヨハネのもとを離れた後、どんなプロセスを経て、イエス様が自分の神の国運動の形を見出したのか、福音書には何も書かれていません。確かなことは、彼もまた、失敗、挫折を経験し、迷い、悩み、試行錯誤を繰り返しながら成長していったということです。

ナザレのイエスの、人としての学びと成長のプロセスは、私たちと劇的に違っているわけではありません。

私は、この主イエス命名の日、新年最初の礼拝の時に、イエス様にも、一人の人としての、当たり前の、成長のプロセスがあったんだということを心に留めたいと思います。

 彼のこの世での生涯は、わずか35,6年でした。私でさえ、すでにイエス様よりも20年近く年を重ねていると思うと、不思議な気持ちになります。

そして、教会は、本来であれば、50歳にもならないうちに、終わりを迎えるはずでした。使徒たちも、パウロも、新約聖書を書いた人たちも、自分たちの生きている間に、イエス様が帰ってきて、教会の歩みは終わると思っていました。

 ところが教会は、イエス様の年齢を57倍も超えて、あと5年で、2千歳になろうとしています。

私たちは黙っていても、年だけは重ねることができます。なんら努力をしなくても、1年ごとに、年をとっていきます。けれども、私たちは黙っていて、1年ごとに、人間として成熟していけるわけではありません。

教会や、学校、政治体制や、経済制度といったものには、生物学的な寿命があるわけではありません。けれども、成長をやめた組織や体制にも、死は訪れます。教会も、学校も、政治体制も、経済制度も、病の故に終わりを迎えるのです。

 人の命のような生物学的な制約を受けないはずの組織や制度が病によって死を迎えるのは、過ちを認められなくなり、自浄作用が働かなくなったときです。

 間もなく2千歳を迎える教会は、病院や学校、音楽や芸術など、その歴史の中で、多くの良いものを生み出し、残してきました。

しかし残念ながら、絶対的真理と、唯一の救いの道を与えられたと自称してきた歴史的・伝統的教会は、中世以降、多くの戦争や暴力に加担してもきました。自分たちが、最も進んだ文明を持ち、世界を指導することができると思った教会は、ナザレのイエスの道を捨てました。

教会は、絶対的正しさと結ばれた暴を振り翳し、人間を動物扱いし、道具として使い、搾取し、そして逆らえば命を奪うことを、神の名によって推し進めてきました。

 私は、2023年の10月以降、パレスティナの人々を、「人の姿をした獣」と呼びながら殺し続けるシオニスト国家の姿の中に、死にゆく歴史的・伝統的教会の姿を重ねて見ています。それは教会が生み出した闇だからです。

 目を見開いて、戦後の教会の急激な衰退を直視するなら、歴史的・伝統的教会が死を迎えているという現実は、否定しようがありません。

それでも私は、教会は、Jesus Movementとして再生しうると信じています。制度としてのキリスト教や、制度としての教会が滅びても、Jesus Movementはいつでも再生し、成長できる。私は本気で、そう信じています。

しかし、それは、自動的に、自然に起こることではありません。黙っていて自然にやってくるのは死です。再生と成長のために、絶対必要不可欠なことは、教会の過ちに向き合うことです。歴史の中で教会が繰り返してきた間違いを、自分たちの失敗を認めることです。

 教会の指導者たちは、あまりにも多くの時間を、過去の正当化と自己弁護のために費やしてきました。それは結果として、教会の死を早めました。

 教会がJesus Movementとして再生し、成長するということは、運動の担い手となる人々が生まれ変わり、成長するということです。

 洗礼を受けて、教会のメンバーとなった人たちが、ナザレのイエスに倣って生きる者とし成長することを願うところでは、Jesus Movementの再生と成長が、必ず起こります。

2025年が、私たち聖マーガレット教会にとって、教会の失敗と過ちの歴史に向き合い、ナザレのイエスに帰り、彼の言葉と業に学ぶことを通して、Jesus Movementとし再生し成長する年となりますように。