降誕後第2主日 説教

1月5日(日)降誕後第2主日

シラ24:1-12; エフェソ1:3-14; ヨハネ1:,10-18

 皆さんもご存知の通り、昨年、2024年の元旦に能登半島地震が発生し、大きな被害を引き起こし、その爪痕は今も残ったままです。

 震災の直後私は「1年の歩み」の「牧師より」の中に、これまで存在を知られていなかった逆断層がマグニチュード7.6の地震を引き起こしたと書きました。

 ところがその後の調査で、2024年1月1日の地震を引き起こしたのは、2014年にはその存在を知られていた海底の活断層であったことがわかりました。

 2011年の東日本大震災以降、全国で防災計画の見直しが行われてきました。石川県でも、2014年に存在が明らかになった海底活断層による津波を想定した、防災計画の改定が行われました。

 ところが、非常に不思議なことに、新たに見つかった断層が引き起こすであろう津波は想定されたのに、地震の揺れを想定した防災対策の見直しは、まったくなされませんでした。

 地震と津波はセットで起こるはずなのに、地震の揺れは考慮しなくても良いという、摩訶不思議な決断です。

 その結果、1997年に、能登半島北方沖の、他の活断層による地震の揺れを想定して策定された防災計画が、そのまま温存されました。

 この1997年の想定では、死者7人、避難者2781人、建物の被害は120棟とされていました。

 しかし、能登半島地震の被害は、1997年の「想定」をはるかに超えるものでした。死者の数は約34倍、建物の被害は625倍、避難者数は18倍に上りました。

 1997年にわかっていなかったことが2014年にはわかって、地震の揺れによる被害が大きくなることは想定できたのに、あえて「想定外」にしておくことで被害を拡大させたという側面が、能登半島地震「にも」あるということです。

 この小さな「想定外」もまた、私たちの中にある、根深い現実逃避傾向を現しています。人は世界の現実が変わっても、「今まで通り」やり過ごしそうとします。

 知られていなかったことが明らかになり、これまでの世界観が維持できなくなっても、事実を知ることを拒否しようとします。

 そして、変わりゆく現実を拒否し、知ることを拒否した先に、大きな破綻がやってきます。

 同じことが教会についても言えます。40年前すでに、「これまで通り」を続けていれば、アウト・リーチを怠っていることによる受洗者の減少と、メンバーの高齢化によって、財政的に行き詰まり、教会が消滅の危機に直面することはわかっていました。

 それでも、「自分たちの世代は大丈夫だろう」と、問題を直視することを避け、取り巻く環境が変わっても変わることを拒み、ここに至りました。

 しかし、それとは対照的に、ヨハネ福音書の著者とその背後にある教会の態度は、非常にラディカルでした。

 ヨハネ福音書の背後にある教会のメンバーは、大部分が民族的にはユダヤ人でした。

 しかし、彼らは主流派のユダヤ人から受け入れられなくなり、会堂からも追放され、ユダヤ人として生きることができなくなりました。

 彼らはそのような厳しい現実を前にしたとき、古い生き方に固執しようとはしませんでした。

 驚くべきことに、彼らは「ユダヤ人」というアイデンティティーを放棄して、「クリスチャン」という新しいアイデンティティーをもって生きる道を選びました。

 ヨハネ福音書の著者は、主流派ユダヤ人からの「攻撃」に対抗するために、自分たちの新たなアイデンティティーを、新しい生き方を、「新しい知恵」によって「武装」しました。

 今日の福音書朗読に出て来る「言」(ことば)という言葉は、ギリシア語の Logos という言葉の翻訳で、ギリシア哲学の伝統の中で、とても重要な用語の一つです。

 紀元前535年頃から475年に、ヘラクレイトスという哲学者がいました。彼が書いた作品は歴史の中で失われ、わずかな断片と他の著者による引用が残っているだけですが、その断片の一つにこうあります。

 「(宇宙の)Logos (法則) はここに説明した通りである。しかし、人々(男たち)は、これを聞いた後も、これを初めて聞いたときも、いつも、これを理解できない。すべてのものはこの Logos に従って存在するようになったにも関わらず、彼らはそれに出会ったことがないかのようである。」

 どこかで聞いたようなセリフです。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。」

 このヨハネ福音書の言葉の中に、ヘラクレイトスの声がこだましています。

 ヨハネ福音書の著者はさらに、ギリシアの Logos の伝統と、「知恵」(Sophia) の伝統とを融合させます。

 Logos と Sophia を結びつけて語ることは、ヨハネ福音書の専売特許というわけではありません。

 彼に先立って、紀元前20年から紀元後の50年にかけて活躍したユダヤ人哲学者、アレクサンドリアのフィロンも、知恵なるSophiaと 言なる Logos を結び付けて語りました。

 イエス様と使徒たちの教会が生まれた時代にもっとも影響力があり、使徒言行録にその名の登場するストア派の哲学者たちは、ヨハネ福音書に先立って、Logosを「摂理」、「自然」、「宇宙の精神」、そして「神」と呼びました。

 ヨハネ福音書の著者は、ストア派の哲学の概念を、ギリシアの知恵と出会ったユダヤ教の知恵の伝統と融合し、イエス・キリストについて語り、自分たちの立場を弁証しました。

 もちろんイエス様自身は、「私は神のロゴスとして、母マリアの胎に宿る前から、神と共に、神の内に、天地創造に先立って、永遠の昔から存在していた」などとは、言っていません。

 ヨハネ福音書は非常に思弁的で、神学的な福音書で、そこには歴史的イエスの姿はほとんど見えません。

 しかし、ここでの重要なポイントは、ヨハネ福音書の背後にある共同体が、これまで通りのユダヤ人としての生き方を続けることができなくなったとき、どうやって新たな生き方を見出したかということです。

 彼らは「すでにあった道」を歩んだのではありません。知恵の懐に抱かれ、ロゴスに導かれて、クリスチャンという新たなアイデンティティーを「生み出し」、新たな道を切り拓いたんです。

 ヨハネ福音書の著者は、当時最先端の知見に、流行り物に乗り、それを大いに用いて、自分たちの信仰を表現し、新たな生き方を見出しました。

 日本のジリ貧の教会も、宣教師たちの時代からほとんど変わらない、これまでのやり方を続けることは到底できなくなりました。

 そもそも、私たちが生きている世界そのものが、もはや「今まで通りの世界」ではありません。

 気候変動は深刻化を続け、四季はすでになくなりつつあります。近い将来には、食糧と水の確保が大きな問題になるでしょう。

 アメリカ、イギリスを中心とした西洋諸国の支援を受けたシオニスト国家は、国際法を完全に無視した虐殺行為を、ガザからレバノン、シリア、イエメン、イランにまで拡大し、戦後秩序と呼ばれてきたものは、私たちの目の前で完全に崩壊しようとしています。

 「法に従った戦争」などというのは幻想であって、殺し合いは人間の倫理的思考を破壊します。

 アメリカとロシア、あるいはアメリカと中国の戦争になれば、アメリカの金魚のフンを続けている日本も巻き込まれます。

 戦争になれば、原発も軍事攻撃の対象となります。原発が攻撃されれば、日本が終わります。

 その時にはアメリカ軍は逃げていき、日本に暮らす普通の人々は、そこに取り残されます。

 私たちが生きているのは、そういう世界です。それでも、私たちは、この時、この場所で、ナザレのイエスに倣う者として、神の国の豊かさと喜びを世に示し、平和を作る共同体として生きようとしています。

 最先端のテクノロジーと、最先端の学問を融合して、Jesus Movementとして新たな道を切り開く。それを可能にしてくれるのは、未来を担う世代、世界中で、巨悪との戦いを主導している「Z世代」の人々かもしれません。

 問題だらけの教会を、後の世代に引き渡さなければならないことは、心苦しいことですが、未来のことを、未来の世代に委ねる勇気も必要なのでしょう。

願わくは知恵と真理の源である神が、未来の教会の在り方を見出し、未来を担う人たちを、聖マーガレット教会に溢れさせてくださいますように。