








2月23日(日)顕現後第7主日
創世記45:3-11,15; Iコリント15:35-38,42-50; ルカ6:27-38
先週の日曜日に続き、今週の福音書朗読も、マタイの福音書の「山上の説教」に並行箇所がある物語です。
実は、先週と今週の福音書朗読で読まれた、ルカ福音書の「低地の説教」と、その並行箇所にあたるマタイ福音書の「山上の説教」は、福音書の比較研究にとって理想的なテキストです。
話をわかりやすくするために、マタイ福音書の「山上の説教」をもとにお話をしますが、「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章にあたる部分です。
ところが、マタイ福音書の5章から7章にまとめられている様々なエピソードが、ルカの福音書では6章、11章、12章、13章、14章、16章に散らばっています。
マタイ福音書を基準にすると、せっかくマタイ福音書の著者が、すべてのおもちゃを一つのおもちゃ箱の中に収めたのに、ルカ福音書の著者は、そのおもちゃを全部箱から出して、あたりかまわずにぶち撒けたかのように見えなくもありません。
しかし実際には、マタイ福音書の著者が一つの場所に集めた色々な話を、ルカ福音書の著者が切り離し、バラバラにして、自分の福音書に取り入れた、というわけではありません。
あるエピソードがマタイ福音書とルカ福音書だけに出てくる場合、その元ネタは研究者たちが「Q」と呼ぶ資料から来ています。
「Q」はドイツ語の「Quelle」(源泉)という意味の言葉の頭文字で、マタイ福音書とルカ福音書の著者が参照した共通の文書資料を「Q」と呼びます。日本語では「Q資料」とも呼ばれます。
福音書を書いた人たちは、ゼロベースで書物を書いたわけではなくて、書かれた資料と、共同体に伝わる口頭伝承と、自分の創造的想像力とを総動員して、福音書を書いているわけです。
ルカ福音書の「低地の説教」とマタイ福音書の「山上の説教」は、どちらも「Q資料」をもとにして書かれていますが、調理の仕方が相当に違います。
ここからわかることは、福音書の著者たちは、文書化され、固定化された伝統でさえ、フリー素材と同じように扱っているということです。
元の文脈を完全に無視して自由に切り取り、配置を変え、編集し、独自の物語に仕立てているんです。
マタイ福音書とルカ福音書の著者は、マルコの福音書も文書資料としとて手元に持っています。
彼らは、「Q資料」とまったく同じように、マルコの福音書さえも、フリー素材として扱っています。
新約聖書に収められた書物の中には、「聖書は教会にとって絶対的権威なんだ」というような主張は、一切ありません。
マタイの福音書とルカ福音書の著者が、マルコ福音書をフリー素材的に扱っていることを見れば、聖書そのものの中には、「神の言葉である聖書には誤りがない」と主張する根拠も全くないことがわかります。
私たちが聖書という書かれた伝統を参照するのは、単純に、ナザレのイエスを通して現れた神の神秘に帰るためです。
ナザレのイエスに現れた神秘を解釈し、進むべき道を選択すること。それは本来、各共同体に委ねられた使命なのです。
今日の福音書朗読は、非常に危険な箇所です。扱いを誤れば、教会の命取りにさえなりえます。
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28 呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。 29 あなたの頰を打つ者には、ほかの頰をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。」
ここは、イエス様の肉声が、もっとも鮮明に響いている箇所です。だからこそ、これらの言葉を、文字通りに受け取ってはいけません。
もしイエス様と弟子たちが、「文字通り」に、上着を奪い取る者に下着をも与えていたとしたら、彼らは何も着ないで、スッポンポンで宣教活動をしていたことになります。
しかしイエス様と弟子たちが、裸で宣教の旅をしていたなんて話は、どこにもありません。
イエス様と弟子たちは、伝道旅行の途上で食料を買うためのお金を持っていて、イスカリオテのユダが財布の管理をしていました。
彼らが「持ち物を奪う者」の悪意に身を任せていたなら、管理するべき財布など持っていなかったはずです。
つまり、イエス様と彼の弟子たちは、今日の福音書朗読の言葉を、「文字通り」に生きてはいなかったんです。
イエス様の言葉は、誰も文字通りに実践することができない、誇張法に溢れています。それは、私たちを驚かせ、「当たり前のモノの見方」を揺り動かし、新しいモノの見方をさせるためのレトリックです。
ですから、イエス様の言葉を、暴力、抑圧、虐待、DVの正当化のために使うようなことは、絶対にあってはなりません。
敬虔なクリスチャンを自称しながら、世界中で、神の名によって暴力を振りかざすアメリカ人政治家のようになってはなりません。私たちが進むべきは、彼らと正反対の道です。
「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」。「36 あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
これが、イエス運動の共同体として、私たちの進路を決定するための羅針盤です。
Jesus Movementは、「裁くこと」を諦めた運動です。裁きを放棄するということは、どれほど憎き相手でも、どれほど酷い相手でも、その者の命を奪わないということです。
悪人の命を奪うことを放棄して、「敵」と見なされる人々たちを招いて、共に食卓を囲むこと。それが私たちの進むべき道です。
イエス様の時代のユダヤ人にとって、「敵」は律法に従って歩まない者たち、つまり罪人、徴税人、娼婦、サマリア人、そして異邦人でした。しかしイエス様は、彼らと共に食卓を囲み、そこに神の国の現れを見ました。
多くの日本人は、教会は清い人たち、正しい人たち、高潔な人たちの集まるところだと思っているようです。
教会の内側の人たちは、自分たちのことをそんな風に思ってはいないかもしれません。
でも、多くの人たちにとって、教会は敷居が高くて、足を踏み入れ難い所だという現実は変わりません。
それはとても残念なことですし、ナザレのイエス自身の生き方と、教会の現実とが、まったく正反対の状況になっていると言わざるをえません。
私たちに必要なことは、恩を知らない者にも悪人にも情け深く、慈しみ深い神を示す道を見出すことです。
それは、できる限り多くの人を巻き込んでいけるような、Jesus Movement の在り方を見出すということです。
信仰の大衆運動化。私はそれこそが、教会に残された、唯一の生き残りの道だと思っています。
もし聖マーガレット教会が、群衆を巻き込むJesus Movementになれたなら、そこに巻き込まれた群衆の中から、運動を率いる人々を、神様が呼び出してくださるはずです。
悪人の上にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださる恵の神様が、群衆を巻き込むことによって成長する道を、私たちに示してくださいますように。
