大斎節前主日 説教

2025年3月2日(日)大斎節前主日

出エジプト34:29-35; IIコリント3:12-4:2; ルカ9:28-36

 今朝の福音書朗読は、「変容貌」(Transfiguration)の物語です。

眠りこけていたペトロとヨハネとヤコブが目を覚ますと、イエス様がモーセとエリヤと話し合っていた。そう語られています。

写真も無ければ動画もない時代に、なぜペトロとヨハネとヤコブは、イエス様と語り合っている二人の男がモーセとエリヤだと分かったのか。そう疑問に思う方もあるかもしれません。

福音書という書物は、現代的な意味での「歴史書」ではありません。その大部分は narrative, 物語であって歴史記述ではありません。

 福音書に描かれている物語のほとんどは、信仰共同体の中で共有しようとする「意図」を表現するために作られたものです。

 「変容貌」の物語もそうです。山の上という場所も、モーセとエリヤという登場人物も、イエス様の栄光を現すための舞台装置です。

 「変容貌」(Transfiguration)のエピソードは、モーセが山に登り、神から掟を授かるという旧約聖書の出エジプト記の物語がモチーフとなっています。

 出エジプト記は、奴隷として酷使され、抑圧されていたイスラエルの民が、奴隷の地エジプトから、モーセに導かれて脱出したことを語る書物です。

 さらに、その中で、神の掟、律法は、モーセを通して、イスラエルの民に与えられたと言われています。

ユダヤ人たちは、約束の地に向かう旅の途上で、モーセを通して、神の掟が与えられたと信じていました。イエス様の時代のユダヤ人にとって、モーセは絶対的権威であり、モーセに並ぶ権威は存在しませんでした。

 イエス様と語り合っているもう一人の登場人物、エリヤは、イスラエルから偶像崇拝者を一掃した英雄です。

 旧約聖書には、彼が850人のバアルの預言者と戦って皆殺しにし、その栄光の故に、生きたまま天に上げられたことが記されています(II列王記2:11)。

 メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ人の多くは、生きたまま天に上げられたエリヤが、メシア到来の備えをするために帰って来ると信じていました(マラキ3:23)。

イエス様の時代、ユダヤ人たちは、「モーセもエリヤも、イスラエルの敵と戦って、イスラエルの敵を滅ぼしたから英雄なんだ」「だから彼らは神からの栄光を受けたんだ」と思っていました。

モーセも、エリヤも、イスラエルの敵との戦いを率いる指揮官でした。ユダヤ人が待ち望む「メシア」「救い主」も、敵を滅ぼしてくれる有能な軍事指導者でした。

しかし変容貌の物語は、ナザレのイエスを通して現れた神の栄光は、十字架の死と苦しみの向こう側に現れたことを示そうとしています。

 十字架そのものは喜ばしいものでも、追い求めるべきものでもありません。それは残虐非道な死刑の道具であって、敬うべきものでもありません。

私たちは、痛みや苦しみを追い求めるべきではありません。苦しみや痛みを賛美する理由などどこにもありません。ましてや、信仰の名を借りて人を苦しめたり、抑圧したりすることなど、絶対にあってはなりません。

 しかし、イエス様に倣い、神の国の民としての生きようとする者は、イエス様と同じように、敵意に晒されることがあります。

 ナザレのイエスが語った神の国の福音に反対し、彼を迫害し、彼を十字架にかけたのは、この世で何不自由なく暮らす、支配者の懐にいる人たちでした。

 もし私たちが、ナザレのイエスに倣って生きようとするなら、私たちも、この世で成功している者から罵られ、この世の支配者に迫害される場面に出くわす。

 福音書の著者たちは、そう私たちに警告しています。しかし、たとえそうであったとしても、私たちは、ナザレのイエスに倣って、彼の語った神の国のために生きたいと願っています。

 皆さんもそう願っておられると、私は願っています。

私たちは苦しみを喜ぶマゾヒストではありません。私たちが、罵りや迫害といったリスクを冒してでも、ナザレのイエスに倣って、神の国の民として生きようとするのは、そこにこそ本当の解放があることを信じているからです。

31節には、モーセとエリヤが、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のこと」について話していたと書かれています。協会共同訳で「最後のこと」と訳されているのはギリシア語の ‘ἔξοδος’ という言葉です。

 31節をギリシア語から直訳すると、「栄光の内に見られた者たちは、彼がエルサレムで遂げようとしている彼のエクソドスについて話していた」となります。

  ‘ἔξοδος’ は「出ること」、「出ていくこと」を表す言葉ですが、七十人訳と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書では、「出エジプト記」の書名が ‘ἔξοδος’ となっています。

そして何よりも、イエス様の時代のユダヤ人にとって、 ‘ἔξοδος’ は「解放」の出来事を意味していました。

エジプトからのἔξοδος、それは神ご自身によって成された解放の業だ。そうユダヤ人たちは信じていました。そして、来るべきメシアは、ローマ帝国の軍隊を蹴散らし、異教徒の支配から自分たちを解放してくれる、ダビデのような卓越した軍事指導者だと、ユダヤ人たちは思っていました。

 しかし、暴力によって敵を滅ぼす道の先に、本当の「エクソドス」、本当の解放はありません。

 福音書を読めばわかるように、イエス様には沢山の敵がいました。しかし、イエス様は、自分に敵対する者を、一人たりとも殺しはしませんでした。敵を傷つけてすらいません。

 ナザレのイエスは、自分に従う者たちにも、敵を滅ぼすことを禁じました。むしろ、「敵を愛し、敵のために祈れ」と命じました。

 ですから、モーセとエリヤは消え、イエス様だけが残らなくてはならないんです。

 私たちは、敵を滅ぼす英雄を求めます。しかし、その誘惑に抗わなくてはなりません。そこに本当の解放はないからです。

 ですから、軍隊にチャプレンを送る教会は、ナザレのイエスを裏切り、この世の国を神の国にしようとする過ちに陥った教会です。

軍隊にチャプレンを送ることが当たり前になった教会が、どれほどの巨悪に手を染めて来たか。いわゆる伝統的教会は、その負の歴史と、未だに、まともに向き合ったことがありません。

しかし軍隊にチャプレンを送る教会に未来はありません。

 ナザレのイエスを十字架にかけた罪は、教会の歴史の中に、そして私たちの中に、今も生き続けています。

 今週の水曜日から、私たちはレントに入ります。ナザレのイエスを通して神が示された ‘ἔξοδος’ の道を、解放の旅路を歩むために、この期間が、教会の罪と向き合う時となりますように。