大斎節第1主日 説教

3月9日(日)大斎節第1主日

申命記 26:1-11; ローマ10:8b-13; ルカ4:1-13

 先週の水曜日から、大斎節、英語で ‘Lent’ と呼ばれる、長い長いイースターの準備期間に入りました。教会の暦上、イースターの季節は異様に長くて、1年のほぼ1/4を占めています。

 今年から、第2主日の11時の礼拝に、逝去者のご遺族お呼びすることになりましたので、説教は短めにして、コンパクトな礼拝となるよう心がけます。

 ということで、早速本題に入りますが、今日の福音書の朗読は、「荒野の誘惑」とか「荒野の試み」と呼ばれる物語です。

 しかし、この物語の中心にある問題は、「誘惑」という言葉で私たちが思い浮かべるようなものとは、全然違います。

 「本当はダメかもしれないけど、いいじゃん、しちゃいなよ!」みたいな話ではないんです。

 私たちは体をもって生きています。生きていれば、体に根差した欲求があります。欲求があるのは命があるからで、死んだ体は何も求めません。

 神様が、体にあって生きる存在として私たちを造られたのですから、欲求を悪いものだと思ったり、否定することは、神様を否定することになります。

 ですから、お腹を空かせたイエス様が、石をパンに変えて食べたとしても、何の問題もありません。そこには、何も悪いことはありません。

 そもそも、イエス様自身は宴会男で、パーティーからパーティーを渡り歩くような人だったので、「大酒飲みの食いしん坊で、罪人の仲間だ」とディスられました。イエス様の生き方には、禁欲主義的なところはまったくありません。

 「荒野の誘惑」の物語も、私たちに、禁欲主義者になれと言っているのではありません。この物語は、この世界のもっとも根源的な、もっとも危険な悪がどこにあるかを示しているんです。

 パンに象徴されるのはこの世の経済です。この世界の国々と権力と栄華はこの世の政治を、神殿は宗教を象徴しています。

 この世界で、経済と、政治と、宗教を支配しようとする「エリート」たちは、必ず、悪魔と手を結ぶことになる。今日の物語は、それを私たちに示しているんです。

 ここに語られていることは、可能性の話ではありません。それはこの世界の変わらぬ現実であって、法則とすら呼びえるものです。

 アメリカとシオニスト国家イスラエルの現実を見れば、経済と、政治と、宗教を支配しようとする「エリート」たちが悪魔と手を結んでいることは一目瞭然です。

 それが見えないとすれば、「見る目」が無く世界の現実に無関心で、道徳的羅針盤が壊れているということです。

 先週の水曜日、アメリカの国務長官マルコ・ルビオ(Marco Rubio)は、額に描かれた灰の十字架をこれみよがしに示しながら、FOXテレビのインタビューに答えました。

 その中で彼は、ガザからすべてのパレスティナ人を一掃すると語るドナルド・トランプ大統領に対する賞賛の言葉を、延々と述べました。

 もちろん、マルコ・ルビオの口からは、戦後80年に渡ってアメリカが世界中で繰り返してきた政権転覆や、無数の戦争についての反省の言葉も、1世紀に渡って続くシオニストの暴虐に対する非難の言葉もありません。

 今日の午後、大斎講話の中でもお話をしますが、アメリカにとって国際政治はゲームです。アメリカの政策の中枢にいる人間たちは、人をゲームのコマとしか見ていません。

 私に生命倫理を教えてくれたホアン・マシア先生は常々、「人を殺してもいいという人間と、倫理について語っても無駄だ」と言っていました。

 アメリカの政策中枢にいるエリートたちには、倫理も道徳もありません。それは、悪魔と手を結ぶことの必然的結果であるが故に、歴史は繰り返すのです。

 教会も、この極めて単純な、しかし深刻な事実から目を逸らし続けてきたがために、その歴史の大部分で、この世のエリートたちの抑圧と暴力に加担することになりました。

 悪魔と手を結ぶ者たちの支配するこの世にあって、ナザレのイエスが示された命の道を歩むためには、識別力と、知恵と、勇気が必要です。

 この世のエリートたちが、イエス様の語った神の国を受け入れることができたのなら、彼を十字架につけて殺す必要などありませんでした。

 ですから、命を守り、育み、平和を作る道は、この世のエリートの道とは重なりません。ナザレのイエスが私たちに命じる生き方は、この世のエリートと反対の道を行くことです。

 まことの平和、神の国の祝宴の喜び、永遠の命の希望は、この世のエリートが、抑圧し、苦しめ、排斥し、人として扱おうとしない人たちと共に生きる道にあります。

神が識別力と、知恵と、勇気を与え、聖霊の息吹によって、私たちを導いてくださいますように。