










2025年4月27日(日)復活節第2主日
使徒5:27-32; 黙示録1:4-8; ヨハネ20:19-31
今朝の福音書朗読の中には、二つの顕現物語があります。19節から23節までは、顕現物語であると同時に、聖霊授与と派遣の物語でもあります。
ヨハネ福音書の著者は、新しい命へと起こされたイエス様が、弟子たちに直接、聖霊を吹き込みます。
恐らくここでは、創世記2章の、土で作られた人の鼻に神様が息を吹き込んで生きる者となったという物語がモティーフになっています。
そしてイエス様に息を吹き入れられ、聖霊を受けた弟子たちは、弟子たちを世に遣わします。
ヨハネ福音書の枠組みの中には、聖霊降臨という出来事はありません(それはルカの枠組み)。
ヨハネ福音書が書かれた紀元後の90年頃には、教会の組織化が相当進んでいました。ヨハネ福音書の原著者は、その組織化と画一化の流れに抵抗しようとしています。
ヨハネ福音書では、最後の晩餐に代えて、イエス様が弟子たちの足を洗う、洗足の場面が描かれ、聖餐式ではなくて、洗足をするようにとイエス様が命じているのも、その現れです。
Jesus Movementの草創期には、大きな多様性がありました。すべての教会が、同じことをしていたわけでもなければ、同じことを考えていたわけでも、同じことを信じていたわけでもありません。
組織化と、ローマ帝国との一体化のプロセスを通して、あらゆる面での画一化が進んだのです。
今日の福音書朗読の後半、24節から29節はトマスに対する顕現物語です。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」というトマスのセリフで知られる、有名な箇所です。
ところが、実は、19節から23節までの顕現物語と、24節から29節のトマスへの顕現物語との間に、繋がりはありません。完全に別々の、二つの顕現物語が並べられているだけで、物語の筋としては切れています。
すでにお話ししたように、前半の19節から23節の顕現物語は、聖霊授与と派遣の物語でもあります。話の流れとしては、聖霊を受け、派遣されて行って、宣教活動を始めるとなるのが自然です。
ところが派遣され、散らされていった弟子たちが、新たな場所で福音宣教に邁進しているという姿はありません。弟子たちは鍵をかけて、家の中に閉じ籠ったままです。
多くの研究者は、トマスへの顕現物語は、ヨハネ福音書の原著者が書いたものではなくて、後の編集者による加筆であると考えています(私も含め)。
トマスへの顕現物語が書かれた意図は明白です。この物語は、復活のキリストを見て信じる者たちよりも、イエス・キリストの福音を聞いて信じる者たちの方が、優れた信仰者なんだと言うために書かれました。
「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(29)この言葉が、トマスへの顕現物語に託された意図を集約しています。
そして、この言葉は、イースターの出来事から80年、あるいは90年後に、教会から復活の証人が絶えた、いなくなったという危機から生まれました。
この危機は、イースターの出来事から2千年近く後の時代を生きている私たちとも、無縁ではありません。
日本のキリスト教界全体の衰退、東京教区の信徒数と年齢構成、日本経済の衰退、どこからどう見ても、既存の教会モデルは、全く持続不可能です。
そして何よりも、既存の教会モデルが持続不可能な決定的理由は、その中でナザレのイエスに出会う人が、ほとんど起こされないということです。
幸い、先週のイースター礼拝の中では、5人の方たちが洗礼を受け、聖マーガレット教会の仲間に加えられました。本当に大きな祝福です。
その時にもお話ししましたが、ナザレのイエスに出会って、神の国のヴィジョンを生きようとする仲間が加えられなければ、教会をJesus Movementとして維持することはできません。
聖マーガレット教会教会が、20年後、30年後にも、Jesus Movementとして生き続けていたいと本気で願うのであれば、毎年、最低でも、10名から15名の受洗者を生み出す必要があります。
それは、簡単なことではないかもしれません。でも、それは不可能なことでもないと私は思っています。
イースターの出来事から2千年後のこの時代の人々が、復活のキリストを見ることはありません。
この時代、この場所で、人々がイエス様に出会えるかどうかは、私たちにかかっています。
それは、私たちが、どのような共同体になるかにかかっているんです。
戦争と暴力に満ち溢れ、貧富の格差が広がり続ける世界の中にあって、もし私たちが神の国のビジョンを生きられたなら、
平和を作り、集う人たちが喜びを味わい、癒され、ナザレのイエスから共に学ぶ、そういうコミュニティーになれたなら、
イースターの出来事から2千年後の今でも、人々はナザレのイエスに出会えるはずです。
そして、このコミュニティーに加わり、共に神の国のビジョンを生きたいと思う人たちが起こされるはずです。
復活の主を弟子たちに現された神様が、聖マーガレット教会を変え、新たにし、多くの人たちがイエス様に出会う共同体としてくださいますように。
