







2025年5月4日(日)復活節第3主日(C 年)
使徒言行録9:1-6; 黙示録5:11-14; ヨハネ21:1-19
今日の福音書朗読の物語と非常によく似た物語が、ルカ福音書の5章1節から11節にあります。
どちらの物語にも、シモン・ペトロとゼベダイの二人の息子たちが登場します。どちらの物語の中でも、ペトロはイエス様に次ぐ、重要な位置を与えられています。
どちらの物語でも、シモン・ペトロのその仲間の漁師たちは夜通し働いたにも関わらず、何も獲れず、漁は徒労に終わります。
そこにイエス様が現れ、絶対に魚が取れないような時間に、網を降ろすようにと弟子たちに命じます。
弟子たちはイエス様の言葉に従って、魚が取れるはずのない時間に、網を降ろします。すると予想外の大漁となります。
この二つのエピソードが置かれている位置は、ルカ福音書ではイエス様の宣教活動の最初の頃で、ヨハネ福音書では復活後で、大きく違います。
けれども、物語が担っている機能は全く同じです。それは「顕現の瞬間」、Epiphany Momentです。
予想外の大漁に見舞われた弟子たちは、驚きに満たされます。それと同時に、あるいはそれを通して、「網をおろしなさい」、「漁をしなさい」と命じた人物に対する認識が、劇的に変わります。イエス様の正体がわかるわけです。
実は、福音書の著者たちは、意図的に、イエス様の宣教活動の中心であったガリラヤ湖を、「顕現の場」として選んでいます。
言葉を変えると、湖が、ナザレのイエスを通して、神の力が現れる場として選ばれているんです。
これはイスラエルの民の、最も古い集合的記憶に根ざしています。
イスラエルの民にとって、水は恐怖の対象でした。ですから、彼らは海も、湖も大嫌いでした。
創世記1章の天地創造の物語にも、そのことがよく表れています。神の霊/息が動いていたと言われる「深淵」は、巨大な水の塊です。
巨大な水の塊である「深淵」は、人間にとってコントロール不能な、全てを混沌に帰する巨大な負の力、あるいは「闇の力」です。
天地創造の業は、この強大な水の塊である深淵を神が上と下とに分け、そして治めることによって行われます。
余談ですが、日本聖公会の現行祈祷書の洗礼式文には、「あなたが水を創造し、万物を清めて新しい命を与えるしるしとされたことを感謝します」という一文があります。
私は、これを見るたびに、穴があったら入りたいような、いたたまれない気分になります。
この一文は、「日本聖公会の教役者の中には、創世記1章をまともに読んだことのある人がいないんです」と言っているようなものです。
さて、話を戻しますと、創世記1章に記された神の創造の業というのは、巨大な水の塊によって象徴されている闇の力を、神が打ち破り、秩序をもたらす業です。
そして有名なノアの洪水/箱舟の物語は、神の力が生み出した秩序が、再び混沌へと帰ってしまう物語です。
創世記1章の天地創造物語にも、ノアの洪水物語にも、波や嵐や洪水といった荒れ狂う巨大な水をコントロールし、治めることができるのは神のみだというイスラエル人の理解が反映しています。
ここに、イエス様を通して、神様の力が現れる絶好の舞台として、ガリラヤ湖が選ばれる理由があります。
しかし、今日の福音書朗読の物語は、イエス様が嵐を静める、お馴染みの話しではありません。
この顕現物語は、イエス様の声を聞いて、「とんでもないとき」に、「とんでもないこと」をすると、そこに大きな恵みが溢れるんだと語ります。
私たちは、「これまで通りのこと」から、「今までやってきたこと」から外れることを恐れます。
それは安定、安心、居心地の良さ、豊かさ、特権などを「失うことだ」と思うからです。
そして「慣れ親しんできたもの」、「ずっとやってきたこと」の中に留まって、前に経験した「成功」を、どうにか再現しようとします。
イエス様が十字架の上で殺され、希望が砕け散った後、シモン・ペトロと元漁師の弟子たちが、かつて成功を味わった道へと戻るのも、同じようなことです。
けれども、昔の成功を再現しようという試みは、うまくいきません。かつて成功をおさめたところでも、うまくいかない。それは絶望をさらに深くする出来事になります。
しかし、そこでイエス様が、弟子たちに語りかけます。船を漕ぎ出して、網を打てと。
夜が明けた後に網を下ろす漁師などいません。天敵である鳥がいなくなる日暮れから夜明けにかけて、魚は餌を求めて水面近くに上がってきます。漁をするのはその時です。
日が昇った後には、魚は危険を避けるために深みに逃げ込み、そこから動きません。
ですから、イエス様が元漁師の弟子たちに向かって言っていることは、「とんでもない」ことです。
しかし彼らは、イエス様の声を聞いて、「とんでもないときに」、「とんでもないこと」をしたがために、今までに味わったことのないような大漁を経験しました。
日本中、いえ世界中の教会は今、危機的な状況にあります。それは、これまでの「成功」体験が、何の役にも立たないほど深刻な危機です。
けれどもイエス様は、過去の成功体験が役に立たないところで、私たちの前に現れます。
そして、「とんでもないとき」に、「とんでもないこと」をするようにと、私たちに語りかけます。
その声に聞き従ったとき、神様は、私たちが計画することも、予想することもできなかったような、「とんでもない恵み」を注いでくださいます。
その恵みは、今いる私たちを養い、生かすだけではなく、何十倍もの人たちを養い、生かすことができるほど大きな恵みです。
「とんでもないとき」に、「とんでもないこと」をするようにと語るイエス様の声を聞いたなら、聖マーガレット教会は、とんでもない恵みを経験する教会となり、多くの人たちがその中で養われ、生かされるようになるはずです。そこで私たちも、イエス様に、再び出会います。
イエス様は私たちに、どんなとんでもないことを言われるのか。ドキドキしつつ、期待しましょう。
