













2025年05月11日(日)
使徒9:36-43; 黙示録7:9-17; ヨハネ10:22-30
先週の火曜日、本当に久しぶりに、夫婦で吉祥寺の映画館で、映画を観てきました。Edward Berger 監督の ‘Conclave’ 、「教皇選挙」です。
皆さんの中にも、すでにご覧になった方が何人もおられると思います。
この映画は、2016年に出版されたRobert Harrisの小説 が元になっていますが、ScreenwriterのPeter Straughan による脚本が、本当に見事です。
映画の中で、教皇選挙の始まりに当たって、Ralph Fiennes 扮する Thomas Lawrence 枢機卿が説教をします。その中で、彼はこのように語ります。
「私は一つの罪を、何よりも恐れるようになりました。それは ‘Certainty’(確信、確実さ)です。確信は一致の最大の敵です。確実さは寛容の致命的な敵です。キリストでさえ、最後の時には、確信など持っていませんでした。彼は十字架の上で息を引き取る時、苦悩の中で叫びました。『我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか』と。私たちの信仰は生き物です。まさに、それだからこそ、信仰は疑いと手を取り合って歩んでゆきます。」
そして Thomas Lawrence は、説教をこう締めくくります。‘If there was only certainty and no doubt, there would be no mystery; and therefore no need for faith.’「もし確実さだけがあって、疑いが無かったなら、そこに神秘はありません。それ故、信仰も必要ありません。」
私は、この説教に、そしてConclaveという映画に語られていることは、ローマ・カトリック教会だけではなく、全教会にとって、歴史的キリスト教にとって、決して避けることのできない、大きなチャレンジだと思います。
Thomas Lawrence が語っているように、ナザレのイエスという人の人生のどこにも、確実性などありませんでした。
ナザレのイエスという人は、私たちが人として経験する、ありとあらゆる不確実なものを経験しています。
空腹、不安、怒り、悲しみ、誘惑、失敗、絶望。彼はすべてを経験しました。
ナザレのイエスの生涯と確実性ほどかけ離れたものはありません。
しかし、今日の福音書朗読で語られているのは、自分が属する共同体に、自分の信仰に certainty を、絶対的確かさを与えようとする試みです。
イエス様は「永遠の命を与える羊飼い」なのに、なぜ、ほとんどのユダヤ人は彼を受け入れないのか。
今日の物語の作者は、それは「私の羊ではないからである」とイエス様に言わせます。
ヨハネ福音書は、ナザレのイエスをキリストとして受け入れる者は神から出ているけれども、受け入れない者は悪魔から出ているという二元論に貫かれています。
二元論は決定論です。決定論は、すべてはあらかじめ決まっているという考えです。そして決定論は、「確実性」を求める人間が生み出す幻想です。
宗教的であれ、科学的であれ、すべての決定論は偽りです。絶対的正しさ、確実性は、偽りの上に建てられた砂上の楼閣です。
偽りの上に立つ砂上の楼閣は、疑いに耐えることができません。疑いは偽りを暴くからです。だからこそ、守り得ないものを守るために、暴力が必要になります。
教会が主張してきた絶対的正しさ、確実性は、ローマ帝国の軍隊によって、異端審問や魔女狩りによって支えられてきました。
シオニズムのケースも同じです。シオニズムというイデオロギーは偽りの上に立てられました。
シオニストたちは、「イスラエル」による悪事を批判する者たちを「反ユダヤ主義者」として攻撃し、社会的に抹殺することで、偽りの上に建てられたイデオロギーを守ろうとしてきました。
今、その試みが完全に崩壊していく様を、全世界が目の当たりにしています。
教会が絶対的正しさを主張してきた多くの教義は、教会の外で明らかになった真理の前で、次々と崩壊しています。
教会は長い間、絶対的正しさ、偽りの上に立つ確実さを守ろうとして、この現実から目を逸らしてきました。
しかし、幸いなことに、もはや何をしても、「絶対的正しさ」も、「確実さ」も守れないときがやって来ました。
これは祝福の時です。なぜなら、キリスト教の確実性を諦めるときに、Jesus Movement は再生するからです。
実は、映画 Conclave の中に、Jesus Movementを再生するものが何なのかが、非常に見事に描かれている場面があります。
それは映画の中で次の教皇が決まる、最終投票の場面です。枢機卿たちが候補者の名前を書こうとしたとき、風が吹き込んできて、投票用紙がカタカタと揺れます。
皆さんは、それが何を表しているのかわかるはずです。それはイエス様の中に吹き込んだ息であり、Jesus Movement に命を与えた息であり、この運動を全世界に送り届けた風です。それは聖霊です。
先週、7日の水曜日から、ヴァティカンでは本当のコンクラーヴェが始まり、8日の木曜日に、ロバート・フランシス・プリヴォスト(Robert Francis Prevost)が、初のアメリカ人教皇として選出されました。
1955年9月14日にシカゴで生まれたプリヴォスト(69歳)は、人生の3分の2をアメリカの外で生活しました。
英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語を話すポリグロットで、教会法の専門家です。
彼は教皇名としてレオ14世を選びました。19世紀の教皇レオ13世は、世界に民族主義の嵐が吹き荒れ、独裁的政治家が台頭する時代に、教会に社会教説を導入した人です。
レオ13世の社会教説は、教会の中に、環境保護、人種を超えた正義、民主主義なアプローチ、労働者の権利擁護といった革新をもたらしました。
新教皇レオ14世は、トランプ大統領、ヴァンス副大統領の辛辣な批判者としても知られています。
世界がごく少数の権力者集団の意のままに支配される寡頭政治に陥り、アメリカが世界中の紛争の震源地となっている中で、新教皇はレオ14世と名乗ることを決めました。
ここには、前教皇フランシスコが始めた教会変革路線を踏襲することが示されているのでしょう。
Conclaveの制作に当たって、監督のEdward Bergerは、多くの枢機卿たちにインタビューをしているんですが、インタビューに応じてくれた枢機卿たちは皆、映画が完成したら観ると言ってくれたそうです。
レオ14世自身が、Edward Bergerのインタビューに応じたかどうかは分かりませんが、本当のコンクラーヴェが始まる前に、映画を観たそうです。
私は、映画の内容にも、この映画が制作され、上映されるタイミングにも、聖霊の息吹を感じます。
ナザレのイエスと共に旅をすることは、絶対・確実な道を歩むことではありません。
それは確実さを求める誘惑に抗い、聖霊の風に吹かれて、まだ見ぬ地へ向かう自由な旅です。その旅の中に、神の国の命は、復活の命は現れました。
ナザレのイエスを死から復活の命へと起こされた神が、聖霊の息吹によって、教会を、世界を、新たにしてくださいますように。
