聖霊降臨後第3主日 説教

2025年6月29日(日)聖霊降臨後第3主日

列王記上 19:15-16,19-21 ;ガラテヤ5:1,13-25; ルカ9:51-62

 「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」

 まるでどこかの国の大統領のような攻撃的な言葉に、驚く方もおられるでしょう。

 今日の福音書朗読の物語を解読する鍵は、「サマリア人」という人々が握っています。

 サマリア人は、北のイスラエル王国の末裔です。北のイスラエル王国は紀元前10世紀前半から722年まで存在した王国で、その民がイスラエル人です。

 722年にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされますが、支配体制が崩壊したからと言って、そこに住んでいた人たちがいなくなるわけではありません。

 イスラエル人の大部分は、そのまま今まで暮らしていた場所に残りました。このイスラエル人の末裔がサマリア人です。

 他方、南のユダは、地政学的にはまったく取るに足らない存在で、北のイスラエル王国に従属する部族社会に過ぎませんでした。

 この南のユダの人々がユダヤ人です。ユダヤ人はイスラエル人ではありません。ユダの人々はユダヤ人です。

 ところが、アッシリア帝国の圧力の下で、北イスラエル王国の弱体化が始まると、ヒゼキヤやヨシアといったユダの族長たちが中心となって、「イスラエル人」というアイデンティティーを奪う企てを始めます。

 それは歴史上、他に類を見ないほど徹底的なもので、ユダがイスラエルに取って代わるために、イスラエルの歴史を完全に書き換えるプロジェクトが展開されました。

 このプロセスの中で、ダビデ、ソロモン王が治めたイスラエル統一王朝という神話も生み出されました。

 私たちが旧約聖書と呼んでいる書物は、イスラエル王国とその民であるイスラエル人を偶像崇拝者として徹底的に貶め、イスラエルの神を礼拝する場所をエルサレムに限定し、ユダがイスラエルのアイデンティティーを奪うプロジェクトの集大成です。

 イスラエル人とその子孫であるサマリア人を偶像崇拝者として貶め蔑むユダヤ人と、自分たちの伝統も、イスラエル人というアイデンティティーも奪われたサマリア人との間に、どれほどの憎悪と敵意があったか、想像に難くないでしょう。

 ところが、驚くべきことに、サマリアには Jesus Movement の最初期から、クリスチャン共同体が存在していました。

 ルカ福音書の著者が書いたもう一つの書物、使徒言行録は、フィリポによるサマリア宣教を、パウロの回心の前に置いています。

 パウロの回心は紀元後の34年頃と推定されますが、その前に、フィリポはサマリアで福音を宣べ伝えたと書かれています。

 さらに、使徒言行録の8章を注意深く読むと、フィリポがサマリアに行った時には、すでにサマリア人クリスチャン共同体が存在していたらしいことが見て取れます。

 ヨハネ福音書の著者が、サマリア人のJesus Movementを、イエス様自身の宣教活動に直接結びつけていることも、サマリア人クリスチャン共同体が、Jesus Movementの最初期まで遡ることを証ししています。

 ヨハネ福音書の4章には、有名な「サマリアの女性」の物語があります。

 そこには、サマリアの人々が、イエス様と出会った女性の証言によってイエスのもとに導かれ、イエス様を信じたと語られています。

 ルカ福音書と使徒言行録は、サマリアの教会が生まれてから半世紀以上後に書かれたものですが、著者は今日の福音書朗読の箇所で、敢えて、ユダヤ人とサマリア人の間の敵意について触れています。

 これは、エルサレムを中心とするユダヤ人共同体と、サマリア人共同体とを和解させるためだったと、私は理解しています。

 この物語が書かれたときには、サマリア人教会が存在しているわけですから、53節でサマリア人が退けているのは、イエス様ではありません。

 サマリア人が退けているのは、エルサレムなのです。サマリア人にとって、エルサレムは偽りの神殿、偽りの礼拝の場所でした。

 さらに、エルサレムは、ナザレのイエスに対する拒絶を象徴する場所です。イエス様を亡き者にしようとしたのは、エルサレムを拠点とするユダヤ人指導者たちでした。

 サマリア人クリスチャンの中には、エルサレムを拠点とする教会に対する敵意がありました。

 エルサレム教会の側にも、エルサレムを否定するサマリア人教会に対する敵意がありました。

 ルカ福音書の著者は、この双方向の敵意を乗り越える道を示すことで、エルサレム教会とサマリアの教会とを和解させようとしているのです。

 ユダヤ人とサマリア人が、神の家族として、共に食卓を囲むためには、「ユダヤ人」と「サマリア人」というアイデンティティーが、ナザレのイエスによって与えられる、神の国の民という新しいアイデンティティーに置き換えられることが必要でした。

 今日の福音書朗読の後半、57節から62節は、ナザレのイエスに倣って生きるということは、家族、部族、民族に根ざしたアイデンティティーを放棄することであると告げています。

 「枕する所もない」ということは、この世で故郷を失い、寄留者として生きるということです。

 親の埋葬をすることは、神の掟に従って歩もうとするユダヤ人にとって、最も重要な義務だと見なされていました。しかしイエス様は、死人を死人に葬らせよと言います。

 ここでイエス様は、ユダヤ人として忠実に生きる者を「死人」に例え、ユダヤ人というアイデンティティーにとってもっとも重要な価値を、神の国のために放棄するようにと命じているんです。

 さらに、神の国の前では、血縁による家族も、絶対的な価値ではなく、相対化されるべきものです。

 イエス様が、家族、部族、民族に根ざしたアイデンティティーを捨てるようにと命じるのは、神の国の民としてのアイデンティティーを生み出すためです。

 民族国家や国民国家というフィクションは、暴力と破壊と殺戮を生み出し、Jesus Movementを内側から破壊する、最大の脅威です。

 ナザレのイエスに倣うことを通して与えられる神の国の民としてのアイデンティティーは、部族や民族や国民というアイデンティティーに対する解毒剤です。

 神の国の民として人々が集められるところに、多言語・多民族の共同体が生まれます。

 聖マーガレット教会が、世界中からやってくる人たちが共に集い、祈りと賛美を捧げ、そして食卓を囲むコミュニティーとなれたら、本当に素晴らしいなと思います。

そんな共同体になれたらな、人々はその中で、神の国の平和と喜びを感じることができるんじゃないでしょうか。