降誕後第1主日 説教

2025年12月28日(日)降誕後第1主日
イザヤ63:7-9; ヘブライ2:10-18; マタイ2:13-23


あれは確か、1997年のことだったと思いますが、上智大学で典礼学の講義を取りました。その初日に、先生からこう質問をされました。キリスト教にとって一番大切な祝日は何ですか、と。

私は当時、プロテスタントの福音派の教会に所属していて、教会暦というものを意識したことが全くありませんでした。礼拝学とか、典礼学についての知識も持ち合わせていませんでした。
それで、何も考えずに、「クリスマスですか?」と適当な答えをしました。すると先生からすかさず、「いいえ、イースターです」という答えが帰って来ました。

クラス全体を前に、自分の無知を晒すことになったそのときの恥ずかしい出来事を、今も鮮明に覚えています。
ちなみに、そのとき典礼学を教えてくれていたのは、御受難会の国井健宏(くにいたけひろ)神父さんでした。
(大変申し訳ない言い方ですが、あのレヴェルの典礼学者は、日本聖公会にも、他のプロテスタント教団にもいません。)

厳密に言えば、キリスト教の原祝日、起源とも言える祝日がイースターだという話しは、クリスマスとイースターを比較して、イースターの方が大事だという話しではありません。
むしろ、後にキリスト教と呼ばれるようになる ‘Jesus movement’ の起源には、Easter eventがあったということです。

Easter eventというのは、十字架の上で死んで葬られたナザレのイエスを、神が新しい命に起こし、まずは女性たちの前に、後に男の弟子たちの前に現されたという出来事です。

それが ‘Jesus movement’ の起源であり、後に「教会」と呼ばれる、新たな共同体を生み出しました。
このEaster eventを、宇宙の歴史に例えて言えば、それはBig Bangのようなものです。

Standard Model(「標準理論」)の中で言えば、Big Bang無しに宇宙は存在しません。ですから、それは宇宙の歴史の中で、根源的な重要性を持っているということになります。

キリスト教の歴史の中で言えば、Easter eventが無かったら、Jesus movementも、キリスト教も、教会も、何も無かったということになります。

ですから、Easter eventはキリスト教にとって、根源的な重要性を持っているということになります。

それに比べると、クリスマス物語の重要性というのは、科学の歴史における「天動説」くらいのものです。つまり、本質的な重要性を持ってはいないということです。

今朝の福音書朗読で読まれた箇所は、マタイ福音書のクリスマス物語の最後の部分です。

24日の降誕日第1聖餐式の中でもお話をしましたが、マタイ版のクリスマス物語の主人公は、徹頭徹尾、ヨセフであって、マリアは背景に隠れたまま、表に出てくることはありません。
ナザレのイエスをメシアと呼ぶマタイ福音書の共同体は、ファリサイ派のユダヤ人から、激しい批判と軽蔑に晒されていました。

クリスマス物語は、ファリサイ派に対するマタイ共同体の自己弁護の一環として書かれています。

「ナザレの田舎者で、父親が誰かもわからない、律法破りの常習犯であったイエスという男は、十字架にかけられて、神に呪われた者として死んだじゃないか!」「そんな男をキリスト、メシアと呼んで、自分たちこそまことのイスラエル、まことのユダヤ人だとうそぶいているお前たちは、十字架の上で死んだイエスと同じように呪われた連中だ!」

マタイ福音書の背後にあるユダヤ人教会は、主流派の立場に躍り出たファリサイ派から、そのように言ってバカにされていました。

マタイ福音書の共同体は、ファリサイ派の批判に対して反撃をするために、クリスマス物語を生み出しました。

ところが、1章1節から17節までと、2章全体で展開される2つの物語りと、1章18節から25節の物語は、解決不能な対立をテキストの中に生み出すことになりました。

マタイ福音書1章1節から17節は、長々と系図を展開して、イエス様はダビデの系統だと言おうとしています。

2章1節から23節の物語も同じ戦略を推し進めています。著者は、旧約聖書の出エジプトの物語やモーセを引き合いに出しながら、ベツレヘム生まれのイエス様が「ナザレの人」と呼ばれるようになったのは、預言の成就なのだという主張を展開します。

これは、予型論(typology)と呼ばれる手法です。メシアであるイエス様は、確かにダビデの街、ベツレヘムで生まれたけれども、ナザレに住みつくことになった。それは預言の成就なのだ、というわけです。

このように、1章1節から17節と2章1節から23節の物語は、「イエスはダビデの系統である」、「イエスはダビデの子孫である」という護教論を展開しています。

ところが、1章18節から25節の物語は、ダビデの系統を保証するはずのヨセフとイエス様との関係を、完全に断ち切ってしまいます。

マリアは聖霊によってイエスをみごもったのであって、ヨセフはイエスの父ではないと言ってしまうのです。
その結果、東方の博士たちを登場させて、イエス様をベツレヘム生まれにするために生み出された2章全体の物語をも、まるまる無意味にしてしまいます。イエスがヨセフの子でないのであれば、ダビデの系統ではなくなるからです。

こうして1章18節から25節に割り込んだ物語が、イエス様をダビデの系統として語ろうとする、前後二つの物語の意図を完全否定するという、非常に奇妙なことが起こっているのです。
当たり前の話ですが、内的矛盾を抱えた弁明プロジェクトが、ファリサイ派のユダヤ人を納得させることはありませんでした。

神様にとっては、イエス様がどこの出身であろうが、父親が誰であろうが、何も問題はありませんでした。
そのことに、改めて思いを馳せるべきだと、私は思うのです。

ナザレのイエスが神の国の福音を宣べ伝えていたとき、ユダヤ人社会の中心には神殿と律法がありました。

ナザレのイエスは、律法が定める聖さと汚れとの境界線を平気で乗り越え、神殿中心体制を批判し、その崩壊を予告しました。

その結果、ナザレのイエスは、神殿を中心とするユダヤ人たちから排斥され、十字架の上で殺されました。
さらに、律法によって「神に呪われた者」となった彼は、律法を中心とするユダヤ人から、ファリサイ派からも拒絶されました。

イエス様は、ユダヤ人社会の二つの中心から、神殿と律法からの、二重の拒絶を受けしました。

けれども神様は、律法と神殿によって汚れた者、呪われた者として捨てられたナザレのイエスを、新しい命に起こされました。

それは彼が語った神の姿と、神の国とを、神ご自身が承認する出来事でした。

十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスが、死から起こされて、女性たちに現れ、後に男の弟子たちの前に現れた。この出来事は、ユダヤ人の「メシア待望」の枠組みから完全に外れています。

ですから、律法と神殿祭儀の枠組みの中で、Easter eventを理解しようとすることが、そもそも間違いなんです。(新約聖書全体がその過ちを犯しているわけですが)。

むしろ私たちは、「ナザレのイエス」の出来事を通して、まったく新しい枠組みの中で、神と人と命と世界を理解しなおし、そして新しい生き方を見出すことが必要です。

新たな1年に向かって歩み始める聖マーガレット教会が、Easter eventを通して示された神様の姿を、神の国の喜びと豊かさと平和を、世に現す共同体となっていくことができますように。