





2026年01月01日(木)主イエス命名日
民数記6:22-27; ガラテヤ4:4-7; ルカ2:15-21
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
私たちが、何もしなくても古い年は過ぎ去り、新しい年はやって来ます。しかし、私たちの意識は変わらぬままに、1年、また1年と年を重ねている間に、世界は大きく動き、変わり続けています。
私たち家族がスコットランドのアバディーンから日本に戻って来たのは、2017年の1月末のことでした。私たち夫婦にとっても、子どもたちにとっても、杉並区松庵はすでに、もっとも長く暮らした場所となりました。
私たちは、スコットランドにいた3年3ヶ月の間に、私たちと同じような、多くの外国人と友達になりました。その中には、東欧出身の人たちが沢山いました。
スーパーの店員をしていたルカスはリトアニア人、子どもたちが通っていた学校で知り合ったアンドレアとピーターはスロバキア人、彼らを通して知り合った別の東欧出身の人はチョコ人、大学の同僚にはウクライナ人もいました。
ところが、実は、彼らの「出身国」は、彼らが生まれたときは存在していなかったか、生まれた後に、別の国になりました。
1991年にソヴィエト連邦が崩壊した後に、それまで存在しなかった新しい国が生まれ、あるいはもともと一つだった国が分裂し、別の国になりました。
リトアニアとウクライナは存在しませんでした。チェコ・スロヴァキアという一つの国は、チェコ共和国とスロヴァキアに分裂しました。
世界が大きな変化に巻き込まれるとき、そこに生きている人たちの「集合的記憶」にも、劇的な再編が起こります。
集合的記憶というのは、自然に生まれるものではなく、作られるものです。近代国家における集合的記憶は、公教育を通して人々に刷り込まれます。
私たちに身近なところで言えば、3代目、4代目の在日朝鮮人の方たちは、日本生まれの日本育ちであるにも関わらず、朝鮮学校を通して、「在日朝鮮人」というアイデンティティーを身につけます。
朝鮮学校で学ぶ朝鮮半島の歴史、文化、そして朝鮮語という言語によって、日本に生きる在日朝鮮人という集合的記憶が形成されます。
また集合的記憶が強制される場合も少なくありません。アイヌの人々は日本人ではないし、琉球の人々も日本人ではないのに、明治以降、彼らは強制的に「日本人」の中に組み込まれました。
例え自分自身がアイヌの子孫であろうと、琉球王朝の子孫であろうと、「日本人という集合的記憶」を共有することを強要されました。
日本の植民地主義の犠牲になったのは、中国、朝鮮半島、東南アジアの人々でだけはないのです。
実際、私たち夫婦の知り合いには、時代が時代であったら、琉球王朝のお姫様だったという人がいます。
なぜ1年の初めにこんな話をしているのかと言えば、私たちの集合的記憶も、大きな変化を迎える時が来ているからです。
足元の、小さなレベルから始めますと、戦後80年に渡って維持されて来た東京教区と北関東教区が消滅し、東日本教区となることが決まりました。
しかも、それは、日本聖公会の教会が経験しなければならない、苦しみを伴う、大きな変化の始まりに過ぎません。
明治から変わらなかった教会モデルは、とうの昔に持続不可能になっていたのに、教会は変わることを拒否し続けて来ました。
日本聖公会が組織的に直面している課題は、もはや、どのように消滅を避けるかではなく、どのような消滅のあり方を受け入れるかです。
さらに、その背後で、戦後日本というシステムの崩壊が進み、「失敗の過去」が、衰退と没落という現実として立ち現れています。
それは、上がり続ける物価、上がり続ける教育費、上がり続ける税金、それと反比例して下がり続ける公共サーヴィスと福祉の切り捨てを通して、誰もが経験するところとなっています。
日本の衰退と没落は、歴史教育と言語教育の失敗、アメリカの対中包囲網の最前線として日本が利用されている現実を、「日米同盟の強化」と言い換えるポピュリズム政治、そしてメディアによる無知の固定化に大きく起因するものです。
しかし現実が苦痛であるが故に、多くの人々は、客観的な事実を見ることを避けて、自尊心を安易に満たしてくれるナショナリズムや、排外主義の「心地よい物語」に飛びつきます。
知ることを拒否する人々は、アジアの隣国の発展と成功を、自国への脅威としてしか語ろうとしません。そして、中国が自分たちを攻めてくるという妄想に、自ら進んで取り憑かれます。
西洋の帝国主義を模倣し、アジアにおける植民地化を推し進める侵略戦争をしたのは日本であって、中国でも朝鮮でもありません。
その極めて単純な歴史的事実すら認めることができない。それが、目の前で崩れ去っている集合的記憶にしがみつく者たちの姿です。
私たちが、教会が、困難な現実を直視しながら、喜びと希望をもって歩みを続けていくために必要なことは、私たちの集合的記憶をこの世の政治から、この世の支配者から切り離すことです。
それは、今日の福音書朗読の物語に現れる、羊飼いとなることです。
羊飼いたちは、ローマ帝国にも、ユダヤにも存在しないことになっていました。彼らは社会の秩序を危険に晒す「よそ者」、治安を乱す危険分子と見なされていました。
羊飼いは、ユダヤの神殿中心体制を転覆させることなどできません。
律法中心主義を解体することもできません。ましてや、ローマ帝国を崩壊させることなどできません。
羊飼いたちは、まったく無力な存在です。それにも関わらず、羊飼いたちは、ユダヤ人指導者からも、ローマ帝国の支配者からも、「危険人物」扱いされました。
なぜでしょうか?それは、羊飼いの集合的記憶が、ローマ皇帝にも、エルサレム神殿にも、律法にも結びついていなかったからです。
羊飼いというアイデンティティーにとっては、ローマ皇帝も、エルサレム神殿も律法も、あってもなくても、どうでもいいものでした。
羊飼いは、この世のエリートたちがコントロールできない存在だったんです。
徴兵にも応じない。税金も巻き上げられない。それが羊飼いたちでした。
私たちが、教会が必要とする集合的記憶は、ナザレのイエスの内に喜びを見出した者たちとしての集合的記憶です。
私たちの集合的記憶が、国だの、権力者だのに結び付けられるとき、私たちはJesus movementとしてのアイデンティティーを失います。そして、イエス様が私たちに託された神の国を裏切ります。
幸いなことに、戦後日本が作り上げて来た偽りの集合的記憶も、これまでのキリスト教、これまでの教会という集合的記憶も、維持できなくなりました。
それは、私たちが羊飼いになるチャンスです。ナザレのイエスの内に喜びを見出し、新たな集合的記憶を生み出すために神様が与えてくださった、恵みのときです。
聖マーガレット教会が、イエス様の内に喜びを見出した羊飼いの群れとして、この新しい年を歩んでいくことができますように。
