顕現後第4主日 説教

2026年2月01(日)顕現後第4主日

ミカ6:1-8; Iコリント1:18-31; マタイ5:1-12

 今年の1月、浜岡原子力発電所の再稼働を目指す中部電力が、地震の揺れに関わるデータを改竄していたことが発覚しました。

 2018年以前から行われていたこの不正は、昨年2月の内部告発で発覚しました。

 福島第一原発の壊滅的な事故は、国・電力会社・学界が一体となって作り上げた原子力ムラの存在を明るみに出しました。

 原子力ムラは、隠蔽から、改竄、捏造、やらせ、脅迫にいたるまで、ありとあらゆる不正の温床となり、そこに属する「研究者」や「専門家」たちは、「原発は絶対安全です」と言い続ける、「安全神話の守護者」となりました。

 「格納容器が壊れるような事故が起こる確率は、1億年に1回、あるいはそれ以下である。そんな心配をするのは、隕石が直撃して死ぬのを心配するようなものだ」。「プルトニウムは飲んでも大丈夫」。「(原発が爆発しても)中身が漏れ出すことは万に一つもない」などなど、原子力ムラの専門家たちは、後世に残る幾多の妄言を残しました。

 では、なぜ、原子力の専門家集団を自認する者たちが原子力ムラとなり、安全神話の虜とったのでしょうか?

 そこには大きく2つの理由があります。1つは、自分たちが知らないことを知らなかったことです。

 原子力の専門家は、原子力事故のリスク管理の専門家ではありません。「核分裂の専門家」は「安全の専門家」ではないのです。

 核工学を学んだ人々は機械をどう動かし、核分裂をどう制御するかを考えて設計・運用をするエンジニアです。

 原子力以外の航空機や化学プラントを扱う世界では、設計者・推進側と安全評価者・規制側は、厳格に分離されます。

 ところが原子力の世界では、推進側と規制側が同じ利権構造の中にいるという異常な状況が、当たり前になっていました。

 原子力の専門家を自認する人々は、原子力に関わる事故のリスクについて、自分たちが知らないということを知らなかったのです。

 原子力の専門家たちがムラ化し、安全神話の虜になることを防げなかったもう一つの要因は、外からの声に耳を閉ざしたことです。

 安全学・防災学の専門家である私の友人は、30年以上前に、日本で原発は絶対に無理だと断言していました。

 地震学者の石橋克彦教授は、1997年から、「原発震災」の危険について警告を発していました。

 共産党の吉井英勝(よしいひでき)議員は、京大工学部の原子核工学科の出身で、原子力ムラの論理を熟知した、「正真正銘の専門家」でした。

 彼は福島第一原発事故の5年前に、事故を予言するかのように、過酷事故に至る原発のリスクを正確に指摘していました。

 その他にも、原子力ムラが生み出した安全神話を批判する人たちは沢山いました。

 しかし「原子力の専門家」たちは、ムラの外から発せられる声に、耳を傾けようとはしませんでした。

 むしろ彼らは、知らないことを知らないままでいることを選んだのです。

 ムラの論理の中に閉じこもり、外部の声に対して耳を閉ざす原子力ムラの姿と、歴史的教会の姿とは、重なるところがあります。

 第2朗読の中でパウロが語っているように、十字架の上で殺されたナザレのイエスを復活のキリストと呼ぶことは、ユダヤ人にとっては躓きであり、異邦人には愚かなことでした。

 律法を神の掟と信じるユダヤ人にとって、木にかけられて死んだ者は神に呪われた者です。

 十字架の上で命を落としたイエス様をキリストと呼ぶユダヤ人は、同胞にあざけられ、迫害を受けました。

 律法を神の言葉と信じる者にとっては、神に呪われて死んだ者をメシア、救い主と呼ぶことは、神を冒涜することに等しいことだったからです。

 ユダヤ人は律法という「この世の知恵」によって、異邦人はプラトンと、エピクロスとストア派の哲学という「この世の知恵」によって、イエス様を退けました。

 パウロは「この世の知恵」によって退けられた「十字架につけられたキリスト」を、「この世の知恵」を超える「神の知恵」として示そうとしています。

パウロが示した、「神の知恵」なる「十字架につけられたキリスト」は、ユダヤ人には退けられました。しかし、キリスト教神学の内部では、圧倒的な位置を占めるようになりました。

 最初の3世紀の間、教会は「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えてはいても、「十字架」を信仰のシンボルとして用いることはありませんでした。

 歴史上、もっとも古い十字架のイメージは、200年頃に描かれたと推測される、Alexamenos Graffitoと呼ばれる落書きです。

1857年にローマのパラティーノの丘で発見されたこの落書きには、十字架にはりつけにされたロバと、そのロバを見ている一人の男が描かれています。そして大きな字で、「アレクサメノスが神を拝んでいる」とコメントが書かれています。

 要するに、この落書きは、アレクサメノスというクリスチャンが、十字架にかけられたロバを神として拝んでいるとバカにしているんです。

 十字架をキリスト教のシンボルとして最初に用いたのは、クリスチャンではなくて、クリスチャンをバカにする人たちだったということです。

ところが4世紀に入ると、皇帝コンスタンティヌスの登場と共に、十字架がキリスト教のシンボルとして突如現れます。そして、コンスタンティヌスが勝利のしるしとして、自分の軍隊の盾と剣と兜に刻んだ十字架が、キリスト教の中心的シンボルとなりました。

 十字架を信仰のシンボルとして掲げる教会は、一気に暴力的になり、教会が正統信仰として語るキリスト教の中に、ナザレのイエスの姿を見出すことは難しくなりました。

 「十字架」を中心に据えた教会の論理の中で、つまり教義の枠組みの中で語れば語るほど、ナザレのイエスの姿が見えなくなり、彼が語った神の国が何であったのかがわからなくなる。

 そのことを私に気づかせてくれたのは、教会の歴史や、クリスチャンの行動に対して疑問を抱き、批判をしてくれる人々の発っする「外からの声」でした。

 「外からの声」は私を立ち止まらせ、新たに考えさせ、そして自分を疑う機会を与えてくれました。

 たとえキリスト教が死んでも、Jesus Movementはいつでも復活できる。

 そのことに気づかせてくれた「外からの声」に、私は心から感謝しています。

 私たちの主は、律法の外で生きている人たちと囲む食卓の中に、家族を、そして神の国を見出しました。

 私たちも同じように、「キリスト教の外」にいる人たち、特に、貧しい人々、悲しむ人々、正義を求める人々、平和を造ろうとする人々との交わりの中で、ナザレのイエスに、彼がアッバと呼んだ神に出会うのではないでしょうか。