











2026年5月03日(日)復活節第5主日
使徒7:55-60; Iペトロ2:2-10; ヨハネ14:1-14
「怖がらなくても大丈夫だよ」。親が子どもに向かってそう言うのは、子どもが怖がっているときです。
楽しそうに笑っている子どもに向かって、「怖くないよ」という親はどこにもいません。
それは、新約聖書を書いた人たちの場合も同じです。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」と言われているのは、ヨハネ福音書を書いた人が所属している共同体が、心を騒がせて、イエス様のことを信じ続けることができなくなっていたからです。
新約聖書のすべてのテキストは、「すぐに帰ってくると思っていたイエス様が、待てど暮らせど帰ってこない」という危機に直面した教会の中で書かれました。
新約聖書の研究者たちが「終末遅延」と呼ぶこの危機が無かったら、新約聖書に含まれている書物のどれ一つとして、書かれることはありませんでした。
これは、新約聖書中のどのテキストを解読する時にも、頭に置いておくべき大前提です。
新しい命に起こされたイエス様がいなくなって、その帰りを待ち続け、すでに半世紀以上が過ぎています。
ヨハネ福音書の背後にある共同体も大いに動揺し、人々は「一体、イエス様は、今、どこで、何をしているんですか?」と不安の中で尋ねます。
この問いかけに対するヨハネ福音書の著者の答えは、極めて独創的で、最もヘレニスト的で、そして天才的です。
著者はヘレニズム世界の様々な哲学的伝統に精通しています。ところが彼は、その遺産から引き出した様々な言葉や枠組みを用いながら、同時に、背後にある哲学的伝統を乗り越えていきます。
例えば、善と悪、光と闇、救いに定められた者と滅びに定められた者といったヨハネ福音書の言葉には、グノーシス的な響きが聞こえます。
その響きは、「あなたがたのために場所を用意しに行く」、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」という言葉にも聞こえます。
イエス様は、自分がもともといたところ、父なる神のもとに帰って、そこに自分を信じる者たちを迎えるための、永遠の住処を準備している。その用意が終わったら、イエス様はまた帰ってきて、自分がいるところに、神のもとに、彼を信じる者たちを迎える。
この主張は一見、グノーシス的と見えます。ところがロゴス、言(ことば)が肉を取ったというヨハネ福音書の神学は、グノーシス主義を退けます。
グノーシス主義は、物質を悪、欠陥、失敗と見做します。ですからグノーシス主義者は、神のロゴスが、悪である肉を取るなどとは、口が裂けても言いません。
ヨハネ福音書の著者は、グノーシス主義的な用語や枠組みを用いながら、一貫して、反グノーシスの立場を貫きます。
そのことは、ベタニアのマルタとマリアの兄弟ラザの死の場面にも、明確に見て取ることができます。
グノーシス主義者にとって、死は魂の牢獄である体、肉からの解放であり、悲しむべきことでも、嘆くべきことでもありません。
しかしヨハネ福音書のイエス様は、ラザロの死に憤り、悲しみ、涙を流し、そして彼を甦らせます。グノーシス主義者にとって、これはまったく馬鹿げた行為です。
その上、ヨハネ福音書の著者が「父のもとに行く道」、「命にいたる道」として示すイエス様は、「弟子たちの足を洗う」イエス様です。それは「死すべき体」に仕えるイエス様の姿です。
ヨハネ福音書の中でも、新しい命に起こされたイエス様が「今、どこにいるのか」は、ミステリー、神秘に留まり続けています。
しかし、イエス様が行う業を行うことが神に至る道であること、永遠の命への道であることは、もはや神秘ではありません。
なぜなら、それは「復活のキリストの顕現」を通して、すでに明らかにされたことだからです。
「イエス様が行う業」とは何か。それは「弟子たちの足を洗う」イエス様に、「死に定められた体」に仕えるイエス様の姿に、最も鮮明に現されています。
ところがキリスト教はその歴史の中でしばしば、「足を洗うこと」、「死に定められた体に仕える」ことを忘れ、体を軽蔑し、体を殺す論理を振り翳し、拷問、死刑、戦争、民族浄化までも正当化するようになりました。
私は先週、20代の前半に洗礼を受けられたというある方とお話しをする機会がありました。
ところがその方は、「洗礼を受けているんです」と言った直後に、「でも、もう教会はいいかな、と思ったんです」 と、言葉を続けられました。
「教会はいい」、「キリスト教はもう結構」、その方がそう思うきっかけは、日本も加担した、イラクに対するアメリカとイギリスの侵略戦争でした。
アメリカは、フセイン大統領が大量破壊兵器を隠し持っているという話しをでっちあげ、戦争を開始しました。
戦争が始まってすぐに、イラクに大量破壊兵器などないことが世界中に知れることになりました。
ところが、「あっ、勘違いでした」と言ってアメリカ軍がイラクを出ていくことも無ければ、アメリカ政府が謝罪をすることもありませんでした。
それどころか、アメリカは戦争を続け、フセイン政権を転覆し、石油権益を奪い、あからさまな国際法違反である侵略戦争に対して、何の裁きも受けることのないまま、今日に至っています。
2006年の医学誌『ランセット』の報告は、2003年3月から2006年6月までの戦争で犠牲になったイラク人の数を60万人としています。
ところが、これはミニマムな数字で、「核戦争防止国際医師会」などの報告は、関連死を含めたイラク人の死者数は、100万から200万に上るとしています。
このイラクに対する侵略戦争を、ときのブッシュ大統領は「悪の枢軸」に対する十字軍と表現しました。
自国の利益のために侵略戦争を始め、平気で人を殺す、自称敬虔なクリスチャン大統領と、その戦争を支持する自称敬虔なクリスチャンたちに対する嫌悪は、その方の中でそのまま、キリスト教に対す失望に変わりました。
その方が23年前に感じた、キリスト教と教会に対する嫌悪と失望は、今、全世界に広がり、多くの人々に共有されるところとなりました。
私たちはもはや、その現実から目を逸らして、先に進むことはできません。
「足を洗うこと」、「死に定められた体に仕える」ことを忘れ、体を軽蔑し、体を殺す論理を振り翳すキリスト教を、私たちは徹底的に退けなくてはなりません。
その上で、もし私たちが、「死に定められた体」に仕えるイエス様の姿を再び見出し、この体にあって生きる命を慈しみ、養い、守るために働くなら、それは地上におけるイエス様の働きを超える、「もっと大きなこと」へと繋がります。
「もっと大きなこと」。それは、闇から光へと移された者たちが、イエス様に倣い、「死すべき体にあって生きる命」に仕えることを通して、神の言をもって造られた世界が、ついには光の中に移されるということです。
死の政治、死の経済、死の文化が猛威を振るう世界にあって、「弟子たちの足を洗う」イエス様の姿を見つめ、「死すべき体」に仕えるイエス様に倣う者であることができるように、ナザレのイエスを命の道として現された神様に祈りましょう。
