復活節第6主日 説教

2026年5月10日復活節第4主日(C年)

使徒17:22-31; Iペトロ3:13-22; ヨハネ14:15-21

 昨日の午後1時半から、東京タワーのふもとにある聖アンデレ主教座聖堂で、東京教区として最後の、司祭按手式が行われました。

神学生時代と、勤務聖職候補生時代の2年間を、聖マーガレット教会で過ごしたMF執事が、司祭として按手を受けました。

 それはある意味で、東京教区の終わりと、東日本教区としての新たな出発とを分かつ出来事です。

 新教区が、単なる組織の延命措置や、教会の安楽死装置となってしまわないためには、弁護者なる真理の霊に導かれて、新たな命を与える、新たな物語を生み出すことが必要です。

 今日の福音書朗読の物語は、そのための大きなヒントを与えてくれます。

 先週と今週の福音書朗読で読まれているヨハネ福音書14章は、イエス様が十字架にかけられる「前」に、自分がいなくなった後に残される共同体のために語っている言葉ということになっています。

 イエス様が十字架につけられたのは紀元後30年、ヨハネ福音書のテキストが実際に書かれたのは紀元後の90年以降です。

 「もうひとりの弁護者」を遣わすと語る今日の福音書朗読の物語は、イエス様が現れなくなって60年以上も経ち、親に捨てられた「みなしご」のように、恐れと不安の中に沈むコミュニティーのために書かれました。

 すぐに帰ってくると思っていたイエス様が、60年経っても帰って来なかった。メンバーたちは、騙されたような気持ちになり、意気消沈し、共同体は存続の危機に立たされています。

 しかも新約聖書を生み出した教会は、新約聖書を持っていません。福音書を生み出した教会は、福音書を持っていません。

 危機に直面し、動揺する共同体には、危機対策マニュアルもなければ、参考にしうる前例もありません。

 各コミュニティーは、自分たちが直面する問題に向き合い、それを乗り越えてJesus Movementとして歩みを続けるために、新しい命に起こされたイエス様が、今、どのように、自分たちと共におられるのかを語る、新しい物語を生み出さなければなりませんでした。

 そのようにして生み出された物語のある部分が、後に私たちの手元に福音書や新約聖書として残されることになりました。

 ヨハネ福音書の著者は、イエス・キリストが父のもとに帰られた後に、残された弟子のたちを導くために、父なる神様はイエス様の願いを聞いて、「弁護者」としての聖霊を送ってくれると言います。

 聖霊を「弁護者」(παράκλητος)と呼んでいるのは、ヨハネ福音書だけです。さらに「弁護者」と訳されている ‘παράκλητος’ というギリシア語は、4つの福音書の中で、ヨハネ福音書にしか登場しません。

 ヨハネ福音書の語る「弁護者なる聖霊」の物語は、共観福音書にはない、全く新しい物語です。

 この弁護者である聖霊が、イエス様が父のもとに帰った後、世に残されたイエス運動共同体にすべてを教え、イエス様が語られたことを思い出させ、解き明かしてくれるのだ。そうヨハネ福音書の著者は語ります。

 弁護者である聖霊が、イエス様の語ったことを思い出させ、解き明かすことができるのは、それが「真理の霊」だからです。

 ヨハネ福音書の書かれた時には、すでに共観福音書の執筆が終わっています。ヨハネ福音書の著者は、少なくとも、マルコ福音書とルカ福音書の存在を知っています。

 けれどもヨハネ福音書の著者は、すでに書かれていたマルコ福音書やルカ福音書が、イエス様のことを教え、解き明かしてくれるとは言いません。

 もし、すでに完成していた共観福音書がイエス様のことを教え、解き明かしてくれると思っていたら、ヨハネ福音書の著者は、新しい福音書を書かなかったはずです。

 さらに、ヨハネ福音書の著者は、「自分が書いたこの福音書こそ、イエス様の語ったことを教え、解き明かすのだ」とも言いません。

 彼は、弟子たちにイエス様のことを教え、イエス様の教えを解き明かすのは、福音書でも、新約聖書でもなく、弁護者であり、真理の霊である聖霊だと言うのです。

 「真理」があるところには必ず、「真理の霊」があります。ヨハネ福音書の著者自身も、ギリシアの知の伝統の中で明らかにされた真理を受け入れて、イエス・キリストを解き明かそうとしています。

 これは私たちにとっても必要な作業です。イエス様の神秘を解き明かそうとする営みに、終わりはありません。

 私たちも、新しく発見される真理を受け入れ、真理の霊に導かれて、イエス様を解き明かし、語り直し続けなくてはなりません。

 新しく発見される真理に背を向けることは、カルトへの道です。カルト化したキリスト教は、その信奉者たちの心を、偽りの霊によって支配し、悪魔的な暴力へと駆り立てます。

 私たちは、ヴエルハウゼンとその後継者たちが歴史批評(Historial-criticism)を通して明らかにしてくれた、聖書に関する新たな真理を受け入れ、ナザレのイエスの姿を再発見し、真理の霊に導かれて、新しいイエス様の物語を生み出さなくてはなりません。

 歴史批評(Historial-criticism)が明らかにした聖書に関する新たな真理聖書というのは、聖書が人間の書物であるということです。

 この真理に向き合いながら教会が再生するためには、イエス様の掟を生きて、「イエス様を現す」共同体となるための新しい物語が必要です。

 しかし私たちが、真理の霊によって解明されたイエス様を知っているだけでは、新しい命に起こされたイエス様は現れません。

 イエス様は、イエス様を愛して、イエス様の掟を生きる者たちの中に現れます。

 イエス様を愛して、イエス様の掟を生きる者たちがいなければ、新たにイエス様に出会う人たちは生まれません。洗礼を受けたいと思う人も生まれません。

 教会が衰退を続けてきた原因は、本当は極めて単純なことなのではないでしょうか。

 教会が、イエス様の掟を生きて、イエス様を現す共同体になれなかったから、人々はイエス様に出会えなかった。それだけのことなのではないでしょうか。

 新教区の組織についてどんなに話しをしたところで、それが教会の再生につながるとは思えません。

 必要なことは、植民地主義と白人至上主義と西洋かぶれのキリスト教を乗り越えて、イエス様の掟を生き、イエス様の姿を現わすことです。

 それは、死すべき体を慈しみ、死すべき体にあって生きる命を養い、喜ぶ群れになることです。

 そうすれば、この共同体の営みを通して、人々はイエス様に出会えるようになります。

 そこにこそ新教区の中で、私たち聖マーガレット教会が進んでゆくべき道があるのではないでしょうか。