

2026年05月17日(日)復活節第7主日
使徒1:6-14; Iペトロ4:12-14;5:6-11; ヨハネ17:1-11
私たち聖公会やローマ・カトリック教会は、20世紀の後半以降から、毎週日曜日の礼拝の中で、それ以前までよりも遥かに多くの聖書箇所を読むようになりました。
私たちが用いているのは、Revised Common Lectionaryと呼ばれるエキュメニカルな聖書日課ですが、この新しい聖書日課は、1950年以降に始まったLiturgical Movementの中から生まれました。
この新しい聖書日課が生まれる以前は、聖公会でも、ローマ・カトリック教会でも、日曜日の礼拝の中で読まれる聖書箇所は2つだけでした。
書簡/手紙から1つ、そして福音書朗読が1つ。この2つだけです。
実は年52回(まれに53回)の日曜日に読まれる朗読箇所は、すべて祈祷書の中に含まれていました。
今、手元に1929年に発行されたスコットランド聖公会の祈祷がありますが(印刷は2012年)、この中には年52回の日曜日の特祷と、聖書朗読用のテキストがすべて含まれています。
‘The Collects, Epistles, And Gospels’とタイトルにも見て取れるように、日曜日の礼拝の中で、旧約聖書の箇所が読まれることは、ほとんどありませんでした。
もう少し正確に言いますと、日曜日の礼拝の中で旧約聖書のテキストが読まれるのは、The Sunday Next Before Advent(降臨節前主日)にエレミヤ書23章5節から8節が読まれるだけでした。
もう一つ興味深いことは、日曜日の聖餐式の際には必ず福音書が読まれますが、マルコ福音書がまったく読まれないことです。
唯一の例外はイースターの日曜日で、この日に、もし2回ないしは3回の聖餐式を行うときには、マルコ福音書16章1節から8節を読んでもいいことになっていました。
1年に52回ないしは53回の日曜日の内、41の日曜日は毎年反復されますから、82の聖書箇所は、毎年必ず読まれることになります。
これに、変動する他の11か12の日曜日の分を含めても、20世紀後半にCommon Lectionaryというものが作られる以前は、日曜日の礼拝の中で読む聖書箇所は、最大で106箇所しか無かったということになります。
20世紀後半のLiturgical Movementを主導した典礼学者たちは、「主日礼拝の中で、もっと多くの聖書箇所に触れた方が良い」と考えるようになりました。
そこで、まず、主日礼拝の聖書朗読を3つに増やし、基本的には毎週必ず、旧約聖書のテキストも読むことにしました。
さらに、A年はマタイ福音書を中心に読む年、B年はマルコの年、C年はルカ福音書の年として、3年周期の聖書日課を作り出しました。
ちなみにD年のヨハネの福音書の年というのは無くて、ヨハネ福音書だけは毎年適当にどこかに割り振って、3年間でできるだけ全体をカヴァーするようにしました。
ところが、典礼学者たちの「善意」によって始められた「主日礼拝での3つの聖書朗読」という新たな実践は、聖書のテキストを益々「読まなくなる」、あるいは「聖書を益々軽んじる」という、皮肉な結果を生むことになりました。
それは、今朝の聖書日課からも見ることができます。今朝の第1朗読は使徒言行録から取られていますが、ルカ福音書におけるこの物語は「昇天」に先立つイエス様の言葉です。この後に、イエス様が天に昇ったという話が続くわけです。
それに対して、ヨハネ福音書から取られた福音書朗読の物語は、十字架にかけられる前にイエス様が弟子たちに語られた「告別メッセージ」です。
ところがRevised Common Lectionaryの作成に携わった典礼学者たちは、「イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。『父よ、時が来ました』」という言葉に、「昇天」の教義を読み込んでいます。
何が問題かと言うと、ヨハネ福音書には「昇天」も「聖霊降臨」も無いということです。それはどちらも、ルカ福音書の著者が編み出した物語の枠組みです。
ヨハネ福音書の背後にあるJesus movementと、ルカ福音書の背後にあるJesus movementは大きく異なります。
ヨハネ福音書の著者は、イエス様のことも聖霊のことも、ルカ福音書の著者と同じように理解してはいません。
だからこそヨハネ福音書を書いた人は、あえてルカ福音書とは違う物語を生み出したのです。
典礼刷新運動を主導し、「主日礼拝の中でもっと多くの聖書箇所に触れた方が良い」と考えた学者たちも、聖書のテキストに向き合おうとはしなかったんです。
むしろ、歴史的教会、伝統的教会が各日曜日に設定したテーマ(intention)をテキストに押し付けて、テキストに対する暴力を増幅させませした。
テキストに対する暴力というのは、テキストを書いた人が意図してもいなければ、テキストが書かれた時代の言語が語ることもできなかったことを、テキストの中に読み込むということです。
「キリスト教は聖書に基づいている」という伝統的教会の主張とは裏腹に、教会はその歴史の中で、あまり聖書のテキストを読んできませんでした。それはカトリックもプロテスタントも同じです。
今日の福音書朗読の物語は、ヨハネ福音書の冒頭1章で提示される「ロゴスの受肉」の神学の変奏曲(variation)であって、そこには昇天も聖霊降臨もありません。
神の言葉、神のロゴス、神の意識、神の意志が、天から降って来て、ナザレのイエスという人にあって肉を取ります。
この受肉の神学が、父なる神と、イエス・キリストが「一つである」という主張の根拠になります。
神のロゴスは、創世記の1章の中で、「光あれ」と言って天地創造の業を始められた、あの神の言葉と重ねられています。
さらに、イエス・キリストにおいて肉を取られた神のロゴスは、土の塵(アダマー)で作られた人(アダム)の中に吹き込まれた「神の息」(ルアハ)とも重ねられています。
土くれに過ぎなかった人に、神が息を吹き込まれることで、人は生きるものとなった。創世記2章にはそのように語られています。
こうしてヨハネ福音書の著者は、イエス・キリストを、天地創造の業を推し進める神の言葉と、人に命を吹き込んだ神の息とを「一つ」に重ねます。
イエス・キリストが、天地を作られた神の言葉であり、人を生けるものとした命の息であるからこそ、イエス・キリストを知り、信じ、彼の言葉に従って生きる者は、復活のイエス・キリストにおいて現された命を、永遠の命を生きる者とされるんだ。そうヨハネ福音書の著者は言うのです。
今朝の福音書朗読の物語を、ルカ福音書の著者が設定した「昇天」と「聖霊降臨」の「つなぎ」として使うことは、ヨハネ福音書に対する暴力であり、その著者の神学を著しく軽んじることだと、私は思います。
もちろん、ヨハネ福音書には、ヨハネ福音書にしかない素晴らしさと共に、ヨハネ福音書ならではの問題もあります。
しかし、ヨハネ福音書の素晴らしさも、問題も、真剣にテキストに向き合うことによって初めて見出されるものです。
テキストに真摯に向き合うことは、私たちが自分たちに与えられた素晴らしい賜物を発見することと、私たちが抱えている課題・問題を認めることにもつながっています。
典礼刷新運動から半世紀以上が経ち、その間に世界も大きく変わりました。
キリスト教に対して、キリスト教を生み出した教会に対して、非常に厳しい疑いの目が向けられています。
私たちが直面しているこの危機は、教会が礼拝のあり方を、聖書との向き合い方を、大いに問い直すべき時なのではないでしょうか。
主の日に集まり、共に捧げる礼拝を、聖霊の息吹を受け、復活の命の喜びに満たされた祝宴の前味とするために、聖書のテキストと真摯に向き合いたいと思います。
