聖霊降臨後第3主日 説教

2026年6月14日(日)聖霊降臨後第3主日

出エジプト記 19:2-8a; ローマ5:1-8; マタイ9:35-10:8

今日の福音書朗読の物語は、イエス様が12使徒たちを派遣する場面です。そしてイエス様が12人を送り出す前に、こう命じたと言われています。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」

 ここに出てくる「サマリヤ」という言葉を鍵として、聖書の全体を解読すると、聖書が隠し続けてきた不都合な真実が明らかになります。

私は今日、2千5百年を超えて隠されてきた「不都合な真実」明るみに出して、新たな目でイエス様の姿を見てみたいと思っています。

 そのためには、旧約聖書の背後にある、イスラエルの歴史に触れなくてはなりません。

 イスラエルというのは、今のパレスチナに、紀元前10世紀に現れた王国です。そして、このイスラエル王国の国民がイスラエル人です。

 彼らは民族的にはカナン人なのですが、カナン人というアイデンティティーを放棄して、「イスラエル人」という新しいアイデンティティーを生み出しました。

 「イスラエル人」という新しいアイデンティティーが生まれるプロセスは、新しい物語を生み出すプロセスでもあります。

 こうして、アブラハム、イサク、ヤコブといった父祖たちの物語や、モーセによって奴隷の地エジプトから解放されたという、いわゆる「出エジプト」の物語も生まれました。

 イスラエル王国は政治的にも、経済的にも大いに発展し、2世紀を超えて繁栄を享受します。

 しかし紀元前8世紀の後半に、アッシリアという大帝国の圧力の下で、イスラエル王国の弱体化が始まり、721年にイスラエル王国は崩壊します。

 この時、イスラエル王国の祭司をはじめとするエリートたちの一部は、南のユダという地域に逃れました。

 こうして「イスラエルの伝統」が、南のユダに持ち込まれました。

 ダビデ家を中心とするユダは、イスラエルに従属する部族王朝に過ぎませんでした。

 ここで注意すべきことは、「ユダヤ人」は「ユダ族」の人々のことであって、「イスラエル人ではない」ということです。

 「ユダ」は「イスラエル」ではなく、「ユダヤ人」は「イスラエル人」ではありません。

 紀元前721年にイスラエル王国が滅びたからと言って、それと同時に「イスラエル人」がいなくなったわけではありません。

 体制が崩壊した後も、イスラエル王国の国民のほとんどは、自分たちの土地に残り、彼らは「サマリア人」と呼ばれるようになりました。

 イスラエル王国の弱体化と崩壊に乗じて、ヒゼキヤやヨシアといったユダの族長たちを中心に、「イスラエル」というアイデンティティーを奪う企てが始りまりました。

 イスラエル王国崩壊後、ユダの人々はこのような物語を生み出しました。

 「イスラエル王国の民はアッシリアに連れて行かれ、かつてイスラエルが存在した場所には異教徒たちが送り込まれて住み着いたのだ。」

 サマリア人を、異邦人との混血によって「汚れた民」、「偶像崇拝者」として徹底的に蔑み、ユダ族こそがまことのイスラエルの民なのだと主張する物語は、姿・形を変えて、旧約聖書の至る所で反復されます。

 ダビデ、ソロモン王が治めたイスラエル統一王朝という神話も、この中から生まれました。

 こうして「イスラエルの失われた10部族」という言葉まで生まれ、キリスト教神学の中でも、この言葉が語られ続けました。

 しかし2010年代後半から2020年代にパレスチナを舞台に行われた大規模な「集団遺伝学」(Population Genetics) の研究によって、歴史の真実は、聖書の物語と正反対であることが証明されます。

 サマリア人共同体は、今もパレスチナに存在していますが、2024年の時点で、この共同体のメンバーは、わずか870人にまで縮小が進んでいます。

 しかし、絶滅の危機に瀕しているこのサマリア人共同体こそが、古代カナン人と、つまり古代イスラエル人と、ほぼ完全な(~100%)遺伝的連続性を保っているのです。

 これが意味しているのは、イスラエル王国の民は、アッシリアの地に連れ去られてもいなければ、アッシリア王が送り込んだ異教徒たちと混血してもいなかったということです。

 1948年に「建国」を宣言した「シオニスト国家」と、紀元前10世紀から7世紀後半に存在した「イスラエル王国との間には、当然のことながら、何の関係もありません。

 「サマリア」をキーワードとして古代イスラエルの歴史と旧約聖書を解読して明らかになることは、旧約聖書の編纂というのは、ユダ中心主義に貫かれた、歴史修正主義プロジェクトだということです。

 私たち人間は真実の物語ばかりではなく、多くの偽りの物語をも生み出す存在です。聖書に記された物語も、例外ではありません。

 マタイ福音書の背後にある教会は、「自分たちこそまことのユダヤ人であり、まことのイスラエルの民だ」というアイデンティティーを掲げる教会です。

 そのために、マタイ福音書の著者は、サマリア人に対する敵意を持つイエス様を描いています。

 他方、ルカ福音書とヨハネ福音書のイエス様は、圧倒的に、サマリア人に対して好意的です。

 ヨハネ福音書の中で、イエス様と徹底的に敵対するのはユダヤ人であって、サマリア人ではありません。

 ユダヤ人から、「お前は悪霊に取り憑かれたサマリア人だ」と言われた時、イエス様は「悪霊に取り憑かれている」という主張は退けますが、「サマリア人」と呼ばれることについては、一切反論をしていません。

 「サマリア」に対して全く異なる態度を示すイエス様が、私たちの前に現れています。

 私たちは立ち止まり、問いかけなくてはなりません。「サマリア人の町に入ってはならない」と命じるイエス様は、ナザレのイエスの真実の姿を表しているのでしょうか。

 このイエス様は、「清い者と汚れた者」、「神に祝福された者と呪われた者」とを隔てる旧約聖書の掟を乗り越えたナザレのイエスの姿を隠していないでしょうか。

 「ありとあらゆる病気や患いを癒やされた」イエス様は、ユダヤ人の病気だけを癒したのでしょうか。イエス様は、「ユダヤ人が苦しんでいるから」、深く憐れまれたのでしょうか?

 イエス様は確かに、人々の病を、苦しみを、見過ごしにしない、いえ、できない人でした。

 仕事をしてはならない安息日であろうと、病める者を癒し、苦しみから解放することを躊躇しませんでした。

 そしてイエス様が癒やし、苦しみから解放されたのは、ユダヤ人だけではありません。彼はサマリア人の苦しみも、外国人の病も見過ごしにしませんでした。

 イエス様は、病に苦しんでいるのがユダヤ人だから、心を痛め、癒やされたのではありません。彼は苦しむ人を、深く憐れんだのです。

 キリスト教の歴史は、苦しみの正当化に満ちています。「イエス・キリストが十字架の苦しみを耐え忍んだように、あなたたちも」というわけです。

 今日の第2朗読にも、それが見て取れます。しかし、イエス様自身は、苦しみを見過ごしにすることも、ましてや苦しみを正当化することもありませんでした。

 聖マーガレット教会は、生活に困窮しているのが「日本人だから」パントリーの働きをしているわけではありません。

 難民申請中の人々と生きていこうとするのは、彼らが外国人だからではありません。

 サマリア人であれ、外国人であれ、ユダヤ人であれ、人々を苦しみから解放することは、神の国の働きであることをイエス様が示されたから、それをしているんです。

 そしてナザレのイエスを死から新たな命へと起こされた神様が、貧しくされ、苦しめられている人と共に生きようとするイエス様の道が、永遠の命のつながっていることを示してくださったから、私たちはこの道を歩み続けていくんです。

 聖マーガレット教会が、偽りの物語を超えて、ナザレのイエスの姿を見出し、彼に倣い、彼と共に歩む共同体であることができますように。