











2026年6月7日(日)聖霊降臨後第2主日
ホセア5:15-6:6; ローマ4:13-25; マタイ9:9-13,18-26
今日は、第2朗読に登場する「アブラハム」から、話しを始めたいと思います。
パウロは旧約聖書の創世記に登場する父祖たちの一人、アブラハムを、「信仰の英雄」として描き、このように言っています。
「19 およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。22 だからまた、『それが彼の義と認められた』のです。」
アブラハムは、一ミリの疑いも持つこと無く、神の約束を確信し続けた。そのためにアブラハムは、神様から「正しい/義と認められ」て、信仰によって神様から約束されたものを受け継ぐすべての者たちの父とされたんだ。そうパウロは言います。
パウロがこう言うのは、「神様には何でもできると信じて、約束された子どもを与えられアブラハムのように、あなたたちは、神様がイエス・キリストを死者の中から復活させたと信じれば、永遠の命を、救いを受けられる」と言うためです。
いつものように、パウロの言葉は巧みで、そのレトリックも見事です。
唯一の問題は、パウロが語る信仰の英雄アブラハムは、どこにもいない、ということです。
もう4年くらい前からになるでしょうか、洗礼後の学びの一環として、英語で聖書を読もうということで、最初は創世記を読みました。今はもう創世記は終わって、出エジプト記の25章に入りました。
一節読むごとに、単語や文法について確認をしながら読んでいくので、進み方は非常にゆっくりですが、必然的に、テキストそのものに注目することになります。
アブラハムは創世記12章から25章に登場するのですが、私たちは創世記の物語の中で語られているアブラハムの姿と、パウロの語る信仰の英雄アブラハムとの巨大なギャップに、何度となく驚かされました。
アブラハムがネゲブに滞在していた時に飢饉が起こり、アブラ(ハ)ムは妻サラ(イ)と共にエジプトに逃れます。
妻のサラは美しい女性で、アブラハムは、エジプト人の男たちが自分を殺して、サラを妻にしようとするかもしれないと恐れます。
そこでアブラハムは、サラに自分の妹だと言うようにと命じ、その結果、サラはエジプトの王、ファラオのもとに召し入れられます。
そして「兄」だと思われたアブラハムは、ファラオの歓待を受け、羊、牛、ロバ、奴隷、ラクダなどの莫大な財産を手に入れます。
ところが神は、ファラオがアブラハムの妻であるサラを召し入れたために、ファラオとファラオの宮廷に災いを下します。
アブラハムは不正に手に入れた財産を持ってエジプトの地を後にし、ゲラルという場所に滞在した時にも、同じことを繰り返します。
妻サラのことを、また「私の妹です」と偽り、ゲラル王のアビメレクがサラを召し入れます。するとアビメレクの夢の中に神様が出てきて、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬことになる。彼女は夫のある身なのだ」と、アビメレクに死の宣告をします。
アビメレクは、サラに手を出す前に、すんでのところで死を免れ、人妻に手を出した代償として、羊と牛と男女の奴隷をアブラハムに与え、こうしてアブラハムは再び、不正な富を増し加えます。
さらに、パウロが語るアブラハム英雄伝とは正反対に、アブラハムは妻のサラが子どもを生むと思っていませんでした。
アブラハムは、妻サラの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルという初子をもうけたのです。女奴隷ハガルの所有権がサラにあるので、ハガルが生んだ子どもイシュマエルの所有権もサラにあります。
こうしてアブラハムは、オリエント社会の慣習に従って、その社会で当たり前と見なされている行為を通して、自分の子孫を得ました。サラがイサクを生むのは、その後の話しです。
「およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした」とパウロが語るアブラハムは、どこにもいません。
アブラハムの英雄化は、パウロの生まれる遥か前から始まっていて、パウロ自身も英雄となったアブラハムの物語を聞いて育っています。
彼は、英雄アブラハムの物語を自分流にアレンジをして、イエス・キリストへの信仰によって救いが得られると語るために用いているだけです。
私たちは今日、ここで立ち止まり、英雄化の危険に向き合いいと思います。
アブラハムの英雄化と同じことは、新約聖書の中で、ナザレのイエスにも起きています。
イエス様の場合、英雄化はアブラハムのレベルにとどまらずに、それを遥かに超えて、「神格化」が進みます。
今日の福音書朗読で読まれた箇所でも、イエス様の英雄化と神格化が起きています。
「12年に渡って不正出血に苦しむ女性を癒したイエス様は、死んだ少女さえも生き返らせることのできる、まことの医者」として描かれます。
しかもマタイ福音書は、娘の父親がイエス様のもとにやってきた時点で、彼女は既に死んでいたと言います。
アブラハムの英雄化と同じことが、ナザレのイエスにも起こり、イエス様は英雄化を超えて神格化され、ついには「三位一体の第二位各の神」になります。
英雄化や神格化の最大の問題は、自分の立場の美化と絶対化が突き進められ、現実の世界との接点を失い、幻想や妄想の世界が巨大化することです。
しかも人間は、幻想の世界を、現実の世界に持ち込もうとします。
ユダヤ人の国をパレスチナに再興すればイエス・キリストが帰ってくると思った人たちは、シオニスト国家を生み出しました。
イエス様が帰ってくる時には核戦争が起こると思っている人は、核戦争が起こる状況にしようとします。
大日本帝国軍は東アジア解放のために戦った英雄だという妄想に取り憑かれた人々は、日本の再軍国主義を推し進めようとしています。
英雄化と神格化の果てに、世界との接点を失い、妄想や幻想になってしまった信仰を、この世に再び接続させてくれるのは、「徴税人や罪人と一緒に食事をする」イエス様です。
徴税人や罪人と一緒に食事をするナザレのイエスを、私たちが再び見出す時、私たちは彼が語られた「神の国」を、「天の国」をこの地上で生きる者とされます。
先週の日曜日、第1回のRENカフェが行われました。RENはRefugee Empowerment Networkの略称で、日本語名は「難民自立支援ネットワーク」です。
コンゴから逃れてきた二人と、RENのスタッフの方々が用意してくれたランチを頂きました。
RENカフェが終わって、後片付けもひと段落したところで、理事長小林麻里さんとスタッフの方々が、「マーガレット教会に来ると、神様っているんだと思える」と言ってくださいました。
その言葉を聞いて私は、RENの方たちとの出会いを与えてくださった神様に感謝すると共に、この道を進みなさいとナザレのイエスが招いておられるのだと、心から感じました。
私たち聖マーガレット教会は、抑圧され、排斥され、居場所を奪われ、命を脅かされる人々と共に生きる道を、これからも歩んでいきます。
なぜなら、それこそナザレのイエスが歩まれた道であり、神の国をこの世にあって生きることになるからです。
聖マーガレット教会を通して、多くの人々が神様に出会い、イエス様に出会い、彼が語った神の国を、この世で生きる仲間になってくれる。そういう共同体でありたいと思います。
