



















2026年07月05日(日)聖霊降臨後第6主日(特定9)(A年)
ゼカリヤ9:9-12; ローマ7:15-25a; マタイ11:16-19,25-30
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」この短い言葉は、約2千年前に、歴史の中で生き、この地の上を歩まれたナザレのイエスという人の姿を、もっとも忠実に示しています。
弔いの歌を歌い、イナゴと野蜜の外には食べも飲みもしないバプテスマのヨハネは、禁欲主義者でした。ヨハネは「裁きの日」がやってくる前に、罪を悔い改め、立ち返るようにと人々に語る「最後の預言者」(マタイ11:13)でした。
しかしイエス様はパリピです。宴会男です。パーティー好きの大喰らいで、大酒飲み、そして罪人と徴税人の仲間でした。
そしてイエス様は笛吹きです!自分の笛の音に合わせて、「さぁ、みんな踊って!」と呼びかける笛吹きです!
大喰らいで、大酒飲みで、罪人と徴税人と一緒に食卓に着く笛吹きのイエス様が、神の国について語るとき、それが宴会として、大パーティーとして現れるのはとても自然なことです。
実は私は、20代の後半に、ほんの一瞬、20秒くらい、修道士になろうかと思ったことがありました。
何度かお話をしたことがありますが、私は1997年の4月から4年間、上智大学の神学部で学んでいました。
今はどうなっているかわかりませんが、私が入学した時には、上智の神学部は、新入組と編入組に完全に学年が分けられていました。
新入組というのは文字通り、十代で大学に入ってきた学生たちです。
編入組の方は、すでに大学を卒業して修道会に所属している人たちで、2年生に入る人と、3年生に入る人とがいたような気がします。
私は1年生で入学したので、本来は新入組に入るはずだったと思うのですが、なぜか編入組に配属されました。
恐らく、北海道の神学校を卒業して24歳で入学したので、神学の学びを一応したことがあるということと、24歳という年齢を考慮して、編入組に入れられたのだと思います。
編入組の私の仲間は、思い出せる限り全員、修道会に所属していました。将来、神父さんになる人たちと、シスターたちです。
良い仲間と、良い教授たちとの出会いがあり、学びはとても充実していましたが、私一人だけが、世俗にどっぷりつかった生活をしていました。
学費を稼ぎ、生活費を稼ぐためのアルバイトと、大学の勉強のバランスをどう取るかで、いつも苦労していました。
修道会に所属していた仲間たちは、学費のことも、生活費のことも心配する必要がありませんでした。
「自分もカトリックになって、修道生活の道に進もうかな」という思いが、一瞬、頭をよぎりました。
でも、2,30秒思い巡らせた後、それは神様が私にさせようとしていることじゃないと強く感じました。
結婚し子どもを育て、生きるために必死に働く人たちの中に、私のいるべき場所が、私が神学をする場がある。そう思ったんです。
あの時の、あの決断から四半世紀が過ぎた今、ようやく、自分が何を成すべきなのか見えてきました。
それは、教会の中に、イエス様が語った神の国の祝宴の喜びを回復することです。
大喰らいの酒飲みで、徴税人と罪人の友であり、「さぁ、踊ろう」と言ってフルートを吹くイエス様に倣って、身体性を、体を取り戻すことです。
禁欲主義と結びついた修道生活が、クリスチャンの理想として掲げられた結果、この世にあって、死すべき身体に結ばれた命は軽んじられ、身体に結びついた喜びは蔑まれ、抑圧されてきました。そしてキリスト教が語る「救い」は、魂の問題に矮小化されました。
しかし、この世にあって、肉に結ばれて生きる命は、神様に与えられた命です。
しかも、パリピであったナザレのイエスは、神の国を、死すべき体にあって生きる命の充満の中に、美味しい食事とお酒の中に、歌と踊りの中に見出しました。
イエス様にとって、罪人たちと共に囲む祝宴の食卓は、神様が私たちのために用意してくださる大パーティーの先取りでした。
ナザレのイエスに倣って生きる者たちにとって、「魂の安らぎ」は、悪にまみれた世界に絶望し、この世界が変わる可能性を否定し、諦観の中に見出すものではありません。
それは悪に満ち溢れた世界の中で神の国を生き、喜びと平和をこの世で実現する中で味わうものです。
ナザレのイエスが招かれる生き方は、悪に満ちた世界の中で、喜びと希望を持って生きるという、大いなるチャレンジです。
イエス様は、神の国の祝宴を、この世で実現する人になるようにと、私たちを招かれています。
イエス様を通して、神様が私たちに託されている使命は、この世から、日本の社会から、よそ者扱いされ、排除される人たちを最初に招待するような祝宴の席を設けることです。
私は、ナザレのイエスに再び出会うことによって、教会の伝統を見直すべき時が来ていると強く思っています。
洗礼を受けていない人を、主の食卓から排除する伝統を、1日も早く見直し、捨てるべきだと思っています。
1年に1回か2回しか教会に来なくても、「洗礼を受けているから」陪餐に与れて、毎週のように礼拝に来続けていても、「洗礼を受けていないから」陪餐に与れないという「伝統」は、ナザレのイエスの姿を現していないどころか、彼の教えと生き方を裏切っていると思います。
「洗礼を受けていない方は、陪餐に与ることはできません」と言う言葉を発する度に、教会がイエス様を裏切っていると感じます。
イエス様が罪人たちと共に囲んだ祝宴として聖餐式が回復される日が来ることを、私は祈り、願っています。
先週の日曜日に、11時からの礼拝で行われたアガペー・ミールは、神の国の祝宴の豊かさと喜びをこの世で示そうとする小さな試みです。
聖マーガレット教会のアガペー・ミールは、かつてのユース聖餐式(Youth Communion)の中から生まれました。
約6年間続けてきたユース聖餐式を止めて、アガペー・ミールに移行するという決断に導いたのは、洗礼を受けてはいないけれども、毎回そこに居る仲間の存在でした。
徴税人と罪人たちの仲間となり、彼らと共に祝宴の食卓を囲んだナザレのイエスの姿に向き合えば向き合うほど、「あなたは洗礼を受けていないので、一緒に食べることはできません」というメッセージを発することに、悲しみを感じるようになりました
ユース聖餐式が終わるたびに、「若い世代への宣教と育成を目的として始めた礼拝のあり方として、このままじゃいけない」と思うようになり、祈りながら、新たな道を探し求めました。その中で与えられた答えが、アガペー・ミールでした。
排外主義、レイシズム、ヘイトスピーチが当たり前になってしまった日本社会の中で、分断を乗り越える、分断を作らない礼拝のあり方を求めるところから、聖マーガレット教会のアガペー・ミールは生まれたんです。
この礼拝は、これは今まで見えなかったものを見えるようにしてくれる、大きな可能性を秘めた礼拝です。
皆さん、どうかアガペー・ミールという礼拝を、聖マーガレット教会にとっての大切な礼拝として、共に育ててください。
この杉並区の松庵の地で、神の国の祝宴を生きようとする聖マーガレット教会という共同体が与えられている恵みと祝福に感謝して、讃美と祈りを捧げましょう。
