聖霊降臨後第4主日 説教

聖霊降臨後第4主日(特定 7)(A年) 2026 年6月21日

エレミヤ20:7-13; ローマ6:1b-11; マタイ10:24-39

今朝の福音書朗読の背景には、マタイ福音書の著者と、彼が所属している教会が経験していた、激しい迫害があります。

 マタイ福音書の教会は、「自分たちこそまことのユダヤ人であり、イスラエルの民なんだ」と思っている人たちの集団でした。

 この集団に対する迫害は、同族のユダヤ人からやってきました。そして迫害の激しさは、家族の間で、血縁関係の中で、もっとも顕著に現れました。

 Jesus Movementに参加することは、「異端者」としてユダヤ人社会から排斥されることでしたから、それが必然的に、家族との葛藤や対立を引き起こしました。

 「35 私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。36 こうして、家族の者が敵となる」という言葉は、マタイ福音書の共同体が直面した迫害の激しさを物語っています。

 「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」という言葉には、イエス様がユダヤ人エリートたちから受けた、激しい反発が反映しています。

 イエス様が多くの人の病を癒していることを聞いて、エルサレムからやって来たユダヤ人エリートたちは、「あいつはベルゼブルの力で悪霊を追い出している!」と言いました。

 ベルゼブルというのは悪霊どもの親分のことです。悪魔扱いされたイエス様の弟子となった人たちが、師匠と同じように悪魔扱いされるようになった。そのことを今日の福音書朗読箇所は伝えています。

 人を「悪魔扱い」することを、英語では「demonisation」と言います。「Demonisation」、「悪魔扱い」は、排除や差別を正当化する時に、必ず、同時に働き始めます。

 先日、仙台市の小学校に通う、外国にルーツのある生徒が、3年間に渡って、「国に帰れ」という差別的な言葉を受け、ランドセルには釘を刺されるといういじめに遭っていたということが大きなニュースになりました。

 悪魔扱いされた者は、人として扱われなくなります。最終的に、悪魔扱いされた者は、滅ぼされるべき者、殺されるべき者になります。

 事実、イエス様を悪魔扱いしたエルサレムのユダヤ人エリートたちが主導して、イエス様は十字架の上で殺されました。

 シオニスト国家では、パレスチナの占領を正当化するために、学校教育を通してパレチナ人の悪魔扱いが、徹底的に推し進められて来ました。

 それこそがガザの虐殺を可能にし、レバノンでの民族浄化を推し進める力です。

 西洋世界は、組織的に、ムスリムの人々を悪魔扱いしてきました。

 イランの学校に爆弾を落とし、168人の少女たちの命を奪っても、アメリカが平然としていられるのは、イランを悪魔扱いして来たからです。

 イースターの出来事の後、新たに生まれたイエス運動に加わった者たちの中には、家族から悪魔扱いされ、イエス様と同じ運命を辿る者たちもありました。

 そして、実はイエス様自身も、家族から悪魔扱いを受けました。

 イエス様が、エルサレムからやって来たユダヤ人エリートたちに「ベルゼブル」と呼ばれた話しは、マルコ福音書の3章21節から35節にあります。

 この時イエス様の家族も、「イエスが悪霊にとり憑かれて、気が変になっている!」と思って、イエス様を取り押さえるためにやって来ます。

 血縁の家族と親類たちは、イエス様が語る神の国に、激しく反対しました。

 イエス様が神の国の福音を宣べ伝えていたとき、血縁の家族は、神の国の運動に加わらなかったどころか、むしろ、それを止めようとしていました。

 イエス様と家族との間には、明確に、対立がありました。そしてイエスは、血縁関係に対して、非常に強い敵意を持っていました。

 それは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」(Lk 9:59-60)という言葉に、最も端的に表れています。

 イエス様の時代、親の埋葬をふさわしく行うことは、「父と母を敬え」と命じる神の掟に従うことであり、子どもが果たすべき最も重要な義務だと見做されていました。

 ですから「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というイエス様の言葉は、律法に従って生きようとするユダヤ人にとって、絶対に受け入れられないものでした。

 ところがイエス様は、神に対する忠誠に次いて重要だとユダヤ人が見做していた、血縁の家族に対する忠誠を、神の国のために放棄することを求めました。

 イエス様が血縁や民族に根ざしたアイデンティティーを捨てるようにと命じるのは、神の国の民として、新しいアイデンティティーを与えるためです。

 ですから、神の国を指し示す共同体として生きようとする教会の中には、民族主義の場も、血縁主義の場もありません。「アメリカ・ファースト」だの、「日本ファースト」の場もありません。

 むしろ神の国を生きようとする教会は、家族から排斥され、この世で力を握る者たちから「悪魔扱い」された人々にとっての最後の砦、安全地帯でなくてはなりません。 かくいう私自身も、血縁の中に、家族や親類縁者の中に居場所のない人間でした。

 6歳の時、小学校に入学する直前に、母親が2回目の離婚をしました。

 その時の私は、離婚が何かもわかりませんでした。自分が父親だと思っていた男性が、実は父親じゃなかったということを知ることになったのは、随分後の話です。

 5人きょうだいの1番上だった母が2回の結婚に失敗した後、彼女が恥晒しな人生の落伍者のような扱いを兄弟や親戚たちから受けていたことを、小学生の私は見ていました。

 そして、悪魔扱いされるようになった女性の子どもは、自動的に悪魔の子どもになります。

 母が2回目の離婚をして間もない時、母のすぐ下の弟にあたる叔父から、憎しみを露わにした顔でこう言われました。

 「父親のいない子どもなんかとは、危なくてうちの子を遊ばせられない。今後、うちの子に近づくんじゃない。」

 こうして、私は母と共に悪魔扱いをされるようになったために、めでたく血縁関係の中に居場所を失いました。

 そのおかげで、私は後に、イエス様が語られた神の国の中に自分の居場所を見つけることになりました。

 そして、ナザレのイエスという人との出会いと、彼との出会いを通して与えられたさらに多くの出会いが、私のアイデンティティーの中心を占める物語となりました。 イエス様に出会い、神の国の民として生きる者とされた私たちに与えられたミッション。神の国を指し示す共同体となるという使命。

 それは、家族の中に、血縁の中に居場所を失った者が自分の居場所を見出し、差別主義と排外主義と拝金主義が支配するこの世の政治の中で命を失う者が、再び命を見出す、そういうコミュニティーになることです。

 この使命を共に担って生きる仲間を与え、大きな喜びを与えてくださる神様に、心からの感謝と讃美をささげます。