












聖霊降臨後第8主日(特定11)(A年)
2026年7月19日
イザヤ44:6-8; ローマ8:12-25; マタイ13:24-30,36-43
「10 斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)。この言葉は誰の言葉でしょうか?
これはイエス様に先立って、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語った、バプテスマのヨハネの言葉です。
イエス様は、このバプテスマのヨハネから洗礼を受け、彼の神の国運動に加わりました。
バプテスマのヨハネが語った「神の国」は、悔い改めにふさわしい実を結ぶ者だけが入ることを許される所でした。
神の国の到来の日は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けなかった者たちが皆裁きを受け、滅ぼされる日でした。
ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネが語る神の国も、悔い改めにふさわしい実として求められた禁欲主義も受け入れられませんでした。
その結果、イエス様は、「あっという間に」、バプテスマのヨハネのもとを離れて、独自の神の国の運動を始めました。
そしてナザレのイエスは、バプテスマのヨハネと正反対の道を進みました。
バプテスマのヨハネのもとを去ったイエス様は、徴税人、娼婦、罪人たちと共に食卓に着き、パーティーからパーティーを渡り歩きました。
呼ばれれば何処にでも行って、誰とでも食卓を囲むイエス様の生き方は、バプテスマのヨハネにも、他のいかなるユダヤ人グループにも、絶対に受け入れられない、「汚れた生き方」でした。
節操なくパーティーからパーティーを渡り歩くイエス様の生き方を、ユダヤ人社会のエリートたちは、「大食漢で大酒飲み」、「徴税人や罪人の仲間だ」と言って、軽蔑しました。
しかしイエス様は、「汚れた者たち」や「罪人たち」を家族と呼び、彼らと共に囲む食卓に、神の国の現れを見ていました。
イエス様が宣べ伝えた神の国は、神様がすべての人を招いてくれる大祝宴だったはずなのに、今日の福音書朗読では、イエス様がこう言っています。
「40 毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者たちとを御国から集めて、42 燃え盛る炉に投げ入れる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
ここに響いているのは、ナザレのイエスの声ではなく、バプテスマのヨハネの声です。
実際、1世紀前半から後半にかけて、イエスに倣う者となった人々の中には、バプテスマのヨハネの弟子だった者たちが少なからずいました。ペトロの兄弟のアンデレも、その中の一人です。
新たな命に起こされたイエス様が現れなくなると(聖書学者たちがEaster Eventと呼ぶ出来事が終わると)多くの教会の中で、バプテスマのヨハネの終末論とイエス様が語られた神の国が混同されるようになりました。
それが進むと、ナザレのイエスが語り生きた神の国は、地平線の彼方に後退し、見えなくなってしまいました。
先ほども触れたように、イエス様がバプテスマのヨハネと袂を分かつことになったのは、イエス様がヨハネの神の国と禁欲主義を退けたからです。
それにも関わらず、なぜ、早くも1世紀半ばには、イエス様が捨てた多くのものが教会の中に戻って来て、イエス様の語られた神の国が、バプテスマのヨハネの終末論に置き換えられることになったのでしょうか。
それは、私たち人間の心に潜む、深い闇の力の故です。いつの時代にも、人は、敵を滅ぼす力を神と同一視します。私たちは、暴力の中に神を求めるのです。
旧約聖書の中に現れるエジプトの神々も、アッシリアの神々も、バビロンの神々も、そしてイスラエルの神も、すべて軍神です。
私たちが毎週、聖餐式の中で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神」と唱えているのは、イスラエルの神が軍神だからです。
しかしナザレのイエスは、戦争と報復から神を解放しました。彼は父なる神を、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方として語りました。
けれども、1世紀の半ばには既に、敵を滅ぼしてくれる神が帰ってきました。教会の敵対者たちが、教会の破滅を願ったように、教会も敵対者の滅びを願うようになりました。
こうして神の国の到来する時は、敵対者が滅ぼされる裁きの日となったのです。
敵を滅ぼす神に私たちが帰る時、あるいは敵を滅ぼす神が私たちのもとに帰ってくる時、私たちはナザレのイエスが語られた神の国を放棄します。
イエス様が語られた神の国は、未来と現在の交わるところであって、ただ一方的に、向こう側から、突然「やって来る」のではありません。
神の国は、祝宴の主催者である神と、神の招きに応える人々とが、共に建て上げていくものです。
ナザレのイエスの呼びかけに応えて、共に食事の準備をし、共に食卓を囲み、互いに給仕をし、互いに仕えることを通して平和を作る交わりの中に、神の国は現れるのです。
人々はそのような交わりの中で、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」、神の国の祝宴の主催者である神に出逢います。
そして、ナザレのイエスが語った神の国は、この交わりの輪が拡散し、増殖することによって、成長していきます。
成長は時間と忍耐を必要とします。神の国の成長のためには、敵を滅ぼすことを諦め、暴力の中に神を見出そうとする誘惑に抗い、ナザレのイエスに倣って生きようとする者たちが必要です。
イエス様が語られた神の国は、映画や小説のような、劇的で、瞬間的で、理想的な結末として現れはしません。
それは「今、ここで」、ナザレのイエスに倣って生きる人々によって現れ、成長していきます。
そして、そのような生き方の中で、私たちは、「今、ここで」、神の国の喜びを味わいます。
この喜びこそが、神の国の民として生きようとするコミュニティーを支える力と忍耐の源となります。
神の国を成長させるために、ナザレのイエスの教えと生き方をより忠実に表している箇所と、それらを裏切る箇所とを見分ける識別力が、私たちに与えられますように。
