











2026年8月16日(日)聖霊降臨後第12主日(特定15)(A年)
イザヤ56:1,6-8; ローマ11:1-2a,29-32; マタイ15:10-28
今朝の福音書朗読の物語のオリジナル、原板はマルコ福音書の7章1節から30節にあります。
マタイ福音書の著者は、マルコ福音書版の物語をそのままコピーしているわけではなくて、大いに手を加えて、自分の福音書の中に取り込んでいます。
12節から14節のファリサイ派に対する呪いの宣言は、マルコ福音書版には無く、マタイ福音書の著者が加えたものです。
今日はこの部分は脇に置いて、11節の「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」語るイエス様の姿と、後半の21節から28節で、カナンの女性を冷たくあしらう、非常にいけずな、とても感じの悪いイエス様の姿を対比させて、テキストを解読してみようと思います。
「口 に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という11節の言葉は、食物に関わる律法の規定を、食べても良い「聖いもの」と、食べてはならない「汚れたもの」との規定を無効化するものです。
イエス様は、徴税人、罪人、遊女たちと共に食卓を囲んでいました。律法の規定によれば、彼らは「汚れたもの」であり、神に呪われたものたちでした。しかしイエス様にとっては、彼らこそが家族でした。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という言葉は、イエス様の生き方と、彼が語った神の国と、完全に合致しています。
ですから、この言葉はイエス様の姿を非常に忠実に現していると、確信を持って言うことができます。
では後半の21節から28節の物語と、その中でイエス様が発していることになっている言葉はどうでしょうか。
まず注目すべきは、物語の舞台設定です。イエス様は「ティルスとシドンの地方に退かれた」とあります。
この「ティルス」と「シドン」というのはシリア領内です。外国です。イエス様と弟子たちが、外国に出たわけです。
すると、その地域に住んでいる女性が、イエス様のもとを訪ねて来たと言うのです。
私が韓国に行ったら、周りに韓国の人がいるのは当たり前のことです。
もし私が中国の広東に行って、「なんでこんなところで広東人が広東語を話しているんだ!」と言ったとしたら、それを聞いた人は、「頭がどうかしちゃったんだな」と思うはずです。
外国に、シリア領のティルス・シドン地方にいるのは、イエス様と弟子たちです。悪霊に取り憑かれた娘を解放してくださいと言っている女性ではありません。
そこでイエス様が、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言っている。
これはかなり異様な光景です。この箇所を解読するための1つヒントが、マタイ福音書の10章にあります。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」(マタイ10:5)。
これは、イエス様が十二弟子を派遣する直前に語ったとされる言葉ですが、この箇所に限らず、マタイ福音書のどこにも、サマリア人に対する肯定的な言葉は、一つもありません!
ヨハネ福音書では、イエス様が自らサマリア人の村に入って、多くの人々がイエス様を信じたと語られているのと、好対照を成しています。
このコントラストを通して、マタイ福音書が、カナンの女性の物語を通して「何をしようとしているのか」が明らかになります。
この物語は、「オレたちユダヤ人が最優先だ。お前たちはユダヤ人の後だ」、そう言うための物語なんです。
「そんな物語が福音書の中にあっていいのか」とショックを受けるかもしれませんが、このショッキングな事実を認めることが、とても大切です。
マタイ福音書には、明確に、「ユダヤ人第一主義」があります。そして、マタイ福音書の著者の背後にある教会は、「ユダヤ人ファースト教会」です。
聖書という書物は、権力争い、主導権争い、差別主義、民族浄化の物語に満ちています。
教会は、自分たちが行使する暴力を、自分たちが成す悪を正当化するために、聖書の中にある暴力を、神の名を語って成される巨大な悪を弁護してきました。
こうして、教会が成す悪は、悪として認識されなくなりました。
同じことが今、シオニストたちにも起こっています。シオニストにとって、ユダヤ人が犯している残虐非道な行いと、ユダヤ人のために成される巨悪は、悪にならないのです。
昨日、8月15日を、日本は「終戦記念日」と呼びます。哲学者の今道知信は、『知の光を求めて』という自伝的書物の中で、「無謀な自滅的戦争による敗北(敗戦)」という事実から目をそむけさせる欺瞞だと言って、これを批判しました。
私は同時に、8月15日を「終戦記念日」と呼ぶことは、大日本帝国が犯した巨悪を、悪として認識することを拒否することでもあると思います。
近隣のアジアの国々にとって、8月15日は大日本帝国の残忍な侵略・占領・支配からの「解放を祝う日」であるということを、決して忘れてはなりません。
そして日本の教会は、この国の侵略戦争と、天皇の名の下に行なわれた数限りない残虐行為を正当化した罪に向き合いながら、アジアのクリスチャンたちと共に祈り、信頼関係を築くことが必要です。
ここまで説教の原稿を書いたところで、数年前にアイルランド人の友人から、指導教授の一人だったスタンリー・ハワーワス(Stanley Hauerwas)の Fully Alive: The Apocalyptic Humanism of Karl Barth という本の書評を書いてくれと頼まれたことを思い出しました。
Studies in Christian Ethics (『キリスト教倫理研究』)というジャーナルの2023年5月号に掲載された書評は、非常に批判的な内容になったんですが、この本の中に、私が「アジアのすべてのクリスチャンにとってプライスレスだ」とコメントしたハワーワスの言葉が2つあります。
それは、2017年にハワーワスが同志社大学で行なった講演の中で語った、次の2つの言葉です。
1つ目は「アジアの諸教会は、時を超えて教会の宣教を維持するために、様々な機関を設立しなくてはならない」(‘The churches of Asia must build institutions for sustaining the church’s mission through time.’)と言う言葉。
もう1つは「アジアの諸教会はまず、戦争で引き裂かれた世界の中で平和に生きるために必要とされる基礎的な徳を備えた人々を養成すること集中しなくてはならない」(‘The Churches of Asia… must primarily focus on the formation of people who possess the basic virtues that are necessary to live peacefully in a war-torn world.’)という言葉です。
ハワーワスがこの言葉を語った2017年よりも、戦争は世界中に拡大し、中国を標的としたアメリカの戦争にアジアの国々が巻き込まれる危険が、がますます高まっています。
持続可能な宣教体制を構築し、ナザレのイエスに倣って、平和を生きる徳を身につけた人々を生み出す。それは、アジアの全教会にとっての急務です。
これを実現するために、私たちが今、ここで始めるべきことは、ナザレのイエスに出会うことです。
彼が語った言葉を見出すことによって、行き先を決めることです。
もし私たちが、「まず日本人に仕える教会になりましょう」言うとすれば、私たちはナザレのイエスに出会っていないということです。
彼がどのように生きたのか。彼が神の国についてどのように語ったのか。何も学んでいないということです。
ナザレのイエスに出会えば、彼がどこに神の力を見ていたかがわかります。それを通して私たちも、どこに神の働きを見出すべきかを知ります。
ナザレのイエスに出会い、どこに神の働きを見出すべきかを学んだならば、私たちは敵を滅ぼす力に神を見出すことができなくなります。暴力と神を同一視することができなくなります。
願わくは、この世界という海で航海を続け、アジアに生きる私たちが、導きの星(「海の星」(stella maris))としてナザレのイエスを見出すことができますように。
