
画像は11時のアガペー・ミール写真です
2026年8月30日(日)聖霊降臨後第14主日(特定17)(A年)
福音書の中には、例え話、警句や箴言、知恵の言葉、黙示文学、論争など、様々な物語があります。
福音書の中に色々なタイプの物語があるのは、人がモノを書く時には必ず、テキストを通して「何をしようとしているのか」に応じて、文章のスタイルを変えるからです。
誰かに愛を伝えるためにラヴ・レターを書こうとして、新聞記事のような文章を書くことはありません。
仕事で上司に業務報告をする文章は、親しい友人に対する近況報告の手紙のようにはなりません。
研究誌に投稿する学術論文が、推理小説のような文章だったら、掲載は見送られるでしょう。
人がモノを書くときには、目的に応じて、テキストを通して何をしようとしているかによって、異なる文体で書くのです。
これは、福音書の物語を解読するための重要な手掛かりになります。「なぜなら、物語のスタイルは、著者その物語を通して、何をしようとしているのか」を反映しているからです。
これを踏まえて、今日の福音書朗読を見てみましょう。
21節の「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」という言葉は、「死の予告」ではありません。
これは、教会の中で信仰告白として生まれた口頭伝承(oral tradition)が、イエス様の口に置かれたものです。
紀元後1世紀半ばには、多くのイエス運動共同体の中で、イエス様が長老、祭司長、律法学者たちの主導した暗殺計画によって十字架の上で殺され、日曜の朝に弟子たち現されたことを告げる口頭伝承(oral tradition)が存在しました。
『コリントの信徒への手紙一』の15章には、パウロが伝えた信仰告白の言葉が記録されています。
「死の予告」であるかのように書かれたこのテキストは、実際には死の予告ではありません。
マタイ福音書が書かれたのは紀元後の80年以降です。イエス様が十字架につけて殺された時から40年以上も後に書かれたものが「予告」になり得ないことは明らかです。
マタイ福音書の背後にある教会は、命の危険と隣り合わせの、激しい迫害に直面していました。
多くの人が、死を恐れ、「自分の命を救う」ために、イエス運動共同体から離脱していきます。
すぐに帰ってくると言っていたイエス様が帰ってこないまま40年以上も過ぎたわけですから、人々が疑心暗鬼になり、「話が違うじゃないか」と言い始めるのも当然のことです。
ところが教会の指導者たちも、マタイ福音書の著者も、「私たちは間違っていました」とは言いませんでした。
むしろ、イエス様にこう言わせます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。25 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」
今日の福音書朗読の物語は、「間違っていました」と言う代わりに、「踏みとどまれ」と命じる物語なのです。
イエス様を十字架から救おうとしたペトロはこっぴどく怒られて、「サタン」とまで呼ばれます。
もしイエス様が十字架に掛けられて殺されなかったら、イエス様は復活しなかった。あなたたちも復活の命に与りたいのなら、死から逃げるな。
イエス様のために死ぬなら、あなたたちは命を得る。でも、もし逃げたら、命を失うことになるんだぞ。
そしてマタイ福音書の著者は、いえマタイ福音書の著者「も」、迫害を前にくじけそうになる教会のメンバーに「踏みとどまれ」と言うために、イエス様がすぐに帰ってくることを確約します。
「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
このセリフは、共観福音書すべてに出てきます(マルコ9:1; ルカ9:27)。
紀元後の66年から70年の間にマルコ福音書の著者がこの言葉を書いてから、十数年後に書かれたマタイ福音書も、ルカ福音書も、同じ言葉を反復しています。
「イエス様はすぐに帰ってくる」と言って帰ってこなかったんですから、「私たちが聞かされてきたことは間違いでした」とか、「最初の見通しは間違いでした」と、誰も言わなかったんです。
けれども、私たちはもう、同じ過ちを繰り返すのを止めて、福音書を書いた人たちも間違っていましたと認めるべきです。
福音書を書いた人が間違えたと認めることは、イエスに踏みとどまることを止めましょうということではありません。
そもそも、イエス様は、十字架の上で命を落とすために宣教活動をしたのではありません。言葉を代えれば、十字架の死は、イエス様の宣教活動の目的でも何でもありませんでした。
もちろんイエス様は、自分がユダヤ人社会のエリートたちから目をつけられていることは知っていました。自分の命を狙う者たちがいることも知っていました。
ではイエス様は、自分の命を狙う人たちがいることに気づいて、どうしたでしょうか?
彼らを避けたんです。陰謀を企む者たちのいる所に近寄らないようにしたんです。
イエス様は死のうとしていたのではありません。彼は、徹底的に、死を避けようとしていました。それでも逃げきれずに、殺されてしまったんです。
命を奪われることと、死を選ぶことは、まったくの別のことです。繰り返しますが、彼は死を選んだのではありません。彼は捕らえられ、殺されたんです。
「イエス様のために死を選ぶように」と命じることは、彼が語った神の国の福音と、彼の生き方を否定することです。
確かにナザレのイエスは、彼の言葉を聞いた者たちに「捨てることを」命じました。
イエス様は、神の国のために「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑」を捨てるようにと言いました(マルコ10:29)。
しかし、神の国のために捨てるのは、死を選ぶためではありません。捨てることによって解放されるためです。
イエス様が捨てることを命じるのは、捨てたことによって、より豊かになるためです。捨てなければ知ることのない、神の国の喜びに満たされるためです。
それは祝福と喜びに満たされ平和を生きる、より豊かな命を選ぶことであって、死を選ぶことではありません。
自分の理想を押し付け、子どもを通して自己実現をしようとする親のもとで悩み、苦しんでいる、多くの子どもたちがいます。
血縁の中で生じる本家本元争いや、遺産相続をめぐる泥沼の骨肉の争い呪いに疲れ果てている人も少なくありません。
レイシズム、排外主義、自民族至上主義は、パレスチナの悲劇を生み、世界中で戦争を拡大させています。
捨てるべきモノを捨てなければ、私たちは自分を滅ぼし、家族を滅ぼし、世界を滅ぼしてしまいます。
私たちはイエス様に踏みとどまります。でもそれは、イエス様のために死ぬためではありません。
イエス様と共に生きるためです。彼と共に旅をし、彼の周りに集まる人たちと共に、神の国のために捨てることを通して、より豊かになるためです。解放され、癒され、喜びに満たされるためです。
私たち聖マーガレット教会が、神の国のために捨てることによって、豊かにされ、祝福を受ける群れとして成長していくことができますように。
