











2026年9月6日(日)聖霊降臨後第15主日(特定18)
エゼキエル33:7-11; ローマ13:8-14; マタイ18:15-20
2017年に私がマーガレット教会の牧師になって間もない頃、家に帰ると、長男が非常に憤慨して、ぷりぷり怒っていたことがありました。
怒りの理由は、「お前の父親はこういう人で、こんなことを言ってる」という噂話を聞かされたことでした。
いかにも噂話らしいことに、長男に話をした当人も、その噂話の発信源になった人も、私と全然面識のない人でした。
けれども、私が言ってもいないことが「塚田の言葉」として東京教区のある界隈で流通していたわけです。
まぁ、取り立てて騒ぐほどのことでもない、ありがちな話ですが、実は同じような問題が、福音書という書物にもあるんです。
生まれたばかりのイエス運動共同体には、「イエスの言葉」はありませんでした。表現を替えると、福音書を生み出した教会に、イエス様の言葉を記録した書物はありませんでした。
もちろん、最初期のイエス運動共同体の中には、イエス様の生の声を聞いた人たちはいました。
イエス様の宣教活動を支えた女性たちや、イエス様と一緒に旅をして、後に使徒と呼ばれる人たちもいました。
けれども、彼らの誰一人として、「純粋なイエス様の言葉」を書き記してなどいませんでした。
噂話が広がるにつれて尾鰭が付くのと同じように、「イエス様の言葉」として教会の中で語られる言葉も、人から人に、時代から時代に語り継がれる中で、大きく変化していきます。
私たちの手元にある福音書という書物は、イエス様の声を、それを聞いた多くの人々の声の中に混ぜ合わせて、私たちのもとに届けています。
端的に言えば、福音書に記された「イエス様の言葉」の多くは、「イエス様はこう言っていたんだよ~」という噂話の声なのです。
今日の福音書朗読の「イエス様の言葉」はこう言います。
「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
マタイの福音書は、イエス様「教会」という言葉を発する、唯一の福音書です。18章17節と、もう1箇所、マタイ16章18節でも、イエス様が「教会」について語っています。
「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)
さて、イエス様は神の国を宣べ伝え、神の国の運動員となるようにと人々を招きました。イエス様が宣教活動をしていたとき、教会は存在していません。
ですから、イエス様のヴォキャブラリーの中に「教会」(ekklesia)という言葉はありません。
それなのに、17節のイエス様は「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言っています。
ここで、「イエス様は存在しないものについて、どうしてあらかじめ語ることができたのか」と問うのは不毛です。
千歩譲って、「イエス様は全知全能の神様なんだから、前もって教会について話してたんだ!」ということを認めたとしても、17節の後半の「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉は、イエス様が自分の教えを否定するような内容です。
イエス様は徴税人や罪人たちと食事をし、彼らを「家族」と呼びました。
しかし17節のイエス様は、教会が破門する人物を「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と命じています。
「これもイエス様が言ったんだ」と言い張れば、イエス様がイエス様を否定しているという、訳のわからない話になります。
話はずっと単純で、今日の福音書朗読に出てくる「イエス様の言葉」は、マタイ福音書の著者の言葉であり、その著者が所属している教会の言葉なのです。
マタイ福音書の教会は、エルサレム神殿崩壊後にユダヤ人社会の新たなエリートとなったラビたちと、本家本元争いをしています。
自分たちこそ本当のユダヤ人であり、神の民なんだと言うために、マタイ福音書はイエス様を「律法学者の一人」にしました。
しかしそれは、イエス様が捨てたものを復活させ、イエス様の言葉と生き方を通して示された神の国の姿を大きく歪めることになりました。
イエス様は、自分の正しさを求めてなどいませんでした。律法を守って清い生き方をすれば、神様が祝福してくれるとも思っていませんでした。
しかし、新たに生まれたラビ・ユダヤ教との間で本家本元争いを繰り広げていたマタイ福音書の教会は、ユダヤ人としてのアイデンティティーと、「自分の正しさ」に固執するあまり、イエス様の教えとも、イエス様の生き方と相容れない言葉を、イエス様の口を通して語らせることになりました。
今日の福音書朗読が私たちに与えてくれる最も大きな教訓は、福音書の中から「イエス様の言葉」を引っ張ってきて、「イエス様はこう言ってるじゃないか、だからこれが正しいんだ!」ということは、極めて危険だということです。
読みようによっては、マタイ福音書を用いて排外主義を主張することも、外国人排斥を訴えることだってできます。
マタイ福音書を使って、クリスチャン・ナショナリズムを煽ることも容易です。
「マタイ福音書がユダヤ人第一主義を掲げているように、日本の教会も日本人第一主義を掲げて、難民支援なんてやめるべきだ」と言うことだってできます。
でも私たちは、これからもRENの人たちと共に、あるぺの人たちと共に、日本に逃れてきた難民申請者と共に歩み、あらゆる国から来た人を迎える共同体として成長する道を選び取ります。
その道は、福音書の雑音の中から、ナザレのイエスの声を拾い上げ、その声に導かれて、女性たち、罪人たち、サマリア人たちと共に食卓を囲むイエス様の姿を見出した時に現れます。
私たちが不完全な聖書、不完全な福音書しか持っていないことは、嘆くべきことではなく、むしろ神様の恵みです。
なぜなら不完全さの中に自由があり、そこにイエスの霊が、聖霊が働く余地があるからです。
