聖霊降臨後第22主日 説教

2026年10月25日聖霊降臨後第22主日(特定25)

レビ19:1-2, 15-18; Iテサロニケ2:1-8; マタイ22:34-46

今日の福音書朗読には、2つの全く異なるテーマ、あるいは問題を取り上げた、2つの短い物語があります。

前半の34節から40節は、律法の中で一番重要な掟は何か、を巡る物語です。

 後半の41節から46節は、詩篇110編1節のウルトラC的な曲解を通して、「メシアはダビデの子孫ではない」と主張する物語です。

 まったく別々の2つの問題を1つの説教として語ろうとすると、説教者の側も特殊な解釈をひねり出す必要に迫られますので、今回は「律法の中で最も重要な掟は何か」という問題を扱った最初の物語、22章の34節から40節までに絞ってお話しをいたします。

 皆さんは、祈祷書の中に「教会問答」というのがあることをご存知でしょうか。洗礼、堅信を受ける人はこれを学ぶことになっています。

 その「教会問答」の「問」と「答」の8と9は、このようになっています。

「問. 8 旧約聖書に記されている神の戒めを言いなさい」。これに対する答えは「モーセの十戒」だということになっています。皆さん、モーセの十戒、覚えていらっしゃいますか?この機会に、みんなで一緒に見てみましょう。

 「第1、あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない」

 「第2、あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」

 「第3、あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」

 「第4、あなたは、安息日を覚えて、これを聖とせよ。」

 「第5、あなたの父と母を敬え。」

 「第6、あなたは殺してはならない。」

 「第7、あなたは姦淫してはならない。」

 「第8、あなたは盗んではならない。」

 「第9、あなたは偽証してはならない。」

 「第10、あなたはむさぼってはならない。」

 ここまでです。これに「問. 9」がこのように続きます。「この戒めについて、主イエス・キリストはどのように教えられましたか。」

 そして「問. 9」の答えとして、今日の福音書朗読の前半、マタイ22章の34節から40節が引用されています。

 「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これはヘブライ語聖書の申命記6章5節からの引用です。

 そして「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、レビ記19章18節からの引用です。

 そしてマタイ福音書の著者は、「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」とイエス様に言わせます。

 ヘブライ語聖書の最初の5つの書物は『律法』と呼ばれ、モーセを通してイスラエルの民に与えられた「神の掟」だということになっていました。

 律法の中には613の掟があると言われていたそうですが、律法の専門家たちは、すべての掟に同じ重要性があるとは考えていませんでした。

 法律でも、学校の校則でも、「あれをしなさい」、「これをしてはいけない」という規則は、無限に増えてゆきます。

 無限にルールが増え続けると、ルールを守ることそのものが目的化し、最後はルールが人を支配するための道具に成り下がります。

 ですから、「ルールは何のためにあるのか」、ルールが目指す「価値」は何かということが、常に問われなくてはなりません。

 神の掟である律法は、イスラエルの民がエジプトの地を脱出して、「約束の地」カナンへの旅の途上で与えられたことになっています。

 出エジプト記の物語では、神が2枚の石の板に書き記した掟をモーセに与えたと言われています。

 これが教会問答の中にも登場する、「モーセの十戒」と呼ばれるものです。

 モーセの十戒は、前半の4つは人と神との関係を規定する掟、後半の6つは人と人との関係を規定する掟になっています。

 「モーセの十戒」を基準にすると、律法の中にある600を超える掟は、人と神との関係を規定する掟か、人と人との関係を規定する掟かのどちらかに分けられることになります。

 じゃあ、「人と神との関係を規定する掟」の根源的価値は、どこに見て取れるか。

それは申命記6章5節の、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という言葉です。

「人と人との関係を規定する掟」を最もよく表しているのは、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉です。

 これは、イエス様の時代、律法の研究をしている人々にとっては一般常識、共通理解だったようです。

 イエス様と同時代のラビ、ヒレルという人も同じことを言っていたことが記録に残っています。

 ですから、「律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」という問いも、それに対するイエス様の答えも、極めて教科書的なもので、この問答そのものに特別なことは何もありません。

 教会問答の、「この戒めについて、主イエス・キリストはどのように教えられましたか」という文言は、極めてmisleadingです。

 もし私たちが、イエス様は何を求めているのか、何を教えられたのかを知りたいと思うなら、この教科書的な問答の一歩先に踏み込む必要があります。

 「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟も、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟も、表面上は単純です。難しい言葉は何もありません。

 けれども、この2つの掟の背後には、極めて重要な別の問題が隠れています。

 第1の問題は神をめぐる問題です。第2の問題は、誰が「隣人」になりうるかという問題です。

 イエス様の時代の敬虔なユダヤ人、神を畏れ、神の掟に従って歩もうとするユダヤ人にとって、「隣人」となり得るのは、神の掟に従って歩む「清い」者たち、神を畏れる同胞のユダヤ人だけでした。

 この判断の背後には、彼らの神がいます。その神は、掟に従って歩む「清い者」だけを祝福し、「汚れた者」を呪う神です。

「十戒」の中にある「汝、殺してはならない」という掟は、「隣人」のカテゴリーから外れる者には適用されません。だからこそ旧約聖書に記されたイスラエルの民の物語も、戦争に溢れているわけです。

 「隣人」のカテゴリーに入らない外国人は、律法を持たず、神の掟を知らない者たちであり、必然的に汚れた者たちでした。

 イエス様は、律法に従って歩むことを止めました。彼は律法を乗り越え、無効にしました。

 ナザレのイエスは、律法を再解釈したのではありません。彼は、律法に従って「清く生きる」ことを無意味にしたのです。

 そのようにして、彼は、絶対に「隣人」になり得ない者たちを、隣人として迎える可能性を開きました。

 サマリア人にとって、ユダヤ人は隣人になり得ませんでした。

 祭司、長老、律法学者、サドカイ派、ファリサイ派の人たちにとって、徴税人や娼婦を「隣人」として迎えることなど、言語道断でした。

 しかしイエス様は、律法を無効にし、「清さ」を求めて生きることを無意味にすることで、それまで絶対に隣人になり得なかった者たちが、共に祝宴の食卓を囲むことを可能にしたのです。

 この背後には、イエス様の語った神がいます。彼が語った神は、善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてしまう方でした。

 私たちは、イエス様に出会わなければ、決して隣人になり得なかった者たちと共に食卓を囲むことによって、神の国の民としてとして、平和を作ります。

 11月1日の日曜日には、再びRENカフェが行われます。私たちは、この地に逃れてきた人たちが作ってくれる食事をいただき、彼らと一緒に食卓を囲みます。

 その日、皆さんもぜひ、イエス様に出会わなければ出会えなかった彼らと一緒に、食卓を囲んでください。