諸聖徒日 説教

2026年11月01日(日)諸聖徒日

黙示録7:9-17; Iヨハネ3:1-3; マタイ5:1-12

今日、11月1日はAll Saints、諸聖徒日という教会の祝日です。実は、この祝日は、かつては移動祝日でした。

 諸聖徒日は4世紀に、ペンテコステ、つまり聖霊降臨日の次の日曜日に設定されました。

 しかし西方教会は9世紀に、この祝日を11月1日に移動させます。さらに10世紀になると、All Saints’ Dayの次の日に、All Souls’ Day(諸魂日)という新しい祝日が作られました。

 このAll Saints’ Day(諸聖徒日)と、All Souls’ Day(諸魂日)の歴史は、教会の中で霊感商法が発展した歴史でもあり、それがルターによる宗教改革の引き金になりました。

 99.9%のクリスチャンは、死んだ後に天国には入れてもらえません。死んで天国に直行できるのは、教会が「聖人」として認定した人だけです。

 ほとんどの信者たちは、死んだ後、煉獄という火の燃え盛る所に送られて、そこでひたすら焼かれます。

 鉄が炉の中で焼かれて、不純物を取り除かれるように、死者の魂も燃え盛る煉獄で焼かれて、清められないと天国に行けない、ということになりました。

 ところが教会は、煉獄での苦しみを軽くしたり、滞在期間を短くする方法、あるいは天国への近道を用意しました。まっ、霊感商法です。

 ディズニー・ランドのファストパスと同じように、天国への近道を使うためにはお金がかかります。しかも、ディズニーのファストパスよりも、圧倒的に高額です。

 こうして、「伝統的に」、11月1日の諸聖徒日は教会公認の聖徒たちの功績を讃える日、11月2日の諸魂日は、煉獄で苦しむ魂の上に、教会公認の聖徒たちの余った天国預金のおこぼれを恵んでくださいと祈る日になりました。

 「思えば遠くへ来たもんだ」という感じですが、天国、煉獄、地獄を巡る教会の教えは、イエス様の教えとも、イエス様がその到来を告げ知らせた神の国とも、まったく関係がありません。

 イエス様の時代のユダヤ人社会は、神の掟とされる律法に従って生きることを求められる世界です。

 神の掟に従って「清い」生活をする者を神は祝福し、掟を守らない汚れたた者を神は呪う。

 「ユダヤ人」という生き方は、律法に従って清く生きることによって、神の祝福を求める生き方だと言っても過言ではありません。

 ところが、ナザレのイエスが「アッバ」、「父」と呼んだ神様の前では、律法に従って清く生きることによって神の祝福を得ようとすることは、まったく無意味になりました。

 なぜなら、神様は、善人の上にも、悪人にの上にも太陽を昇らせ、雨を降らせ、「私の大嫌いなヤツ」の上にも祝福を注いでしまう方だからです。

 福音書の中には、イエス様が律法破りのために非難されている箇所が沢山あります。

 しかし、イエス様が「どうしてお前は律法を破って、汚れた生活をしているんだ」と言って人を非難している場面はありません。

 ですから、イエス様は、この世で「清い」生活をした「聖人」は天国に行けますよ、なんて話をしたことは、ありません。

 今日の福音書朗読で読まれたマタイ福音書5章1節から12節の物語には、英語で ‘the Beatitudes’ 「幸いな者」というタイトルが付けられています。

 All Saints’(諸聖徒日)にこの箇所が読まれるのは、8節に「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」とあるからですが、この「幸いな者」の物語はルカ福音書にもあります。

 マタイ福音書とルカ福音書にだけ共通する物語は、研究者たちが「Q資料」と呼ぶものから取られています。

 そして多くの場合、マタイ福音書よりも、ルカ福音書の方が、「Q資料」の元の形を忠実に留めています。

 ルカ福音書でイエス様が「幸いな者」と呼ぶのは、「貧しい人々」、「今飢えている人々」、「今泣いている人」です。

 「貧しい人々」は「神の国」の相続者となり、「今飢えている人々」は「満たされ」、「今泣いている人々」は「笑うようになる」、そうイエス様は言います。

 「心の清い人々」、「へりくだった人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「平和を造る人々」に対してマタイ福音書が約束する「幸い」は、道徳的な行いや内面的態度に対する報いです。

 ところがルカ福音書が「貧しい人々」、「今飢えている人々」、「今泣いている人」について語る「幸い」は、貧困、空腹、悲しみの中で悩み、苦しむ者に対する、神による一方的な「解放」の宣言です。

 そこにはイエス様が語る神の国の姿が、完全に表されています。

 イエス様が到来を宣言した神の国は、貧困と、空腹と、悲しみの中にある者を、神様が大パーティーに招いて、食べさせ、飲ませ、豊かな命を喜び、楽しませてくださるところです。

 イエス様は私たちを、「清い生き方」をするようにと招いたのではありません。

 イエス様は、律法を無効にし、「清さ」を求めて生きることを無意味にすることによって、絶対に隣人になり得なかった者たちと共に、祝宴の食卓につくようにと、私たちを招かれたのです。

 今日、私たちはイエメンの方たちと、コンゴの方と共に食卓を囲みます。

 それは、「貧しい人々」が「神の国」の相続者となり、「今飢えている人々」が「満たされ」、「今泣いている人々」が「笑うようになる」ための、小さな働きです。

 でも、たとえささやかであっても、それは神の国の現れなんです。

 皆さんの中には、「ナザレのイエスが教え、彼が到来を宣言した神の国に、この世の命を超える希望はないのか?」と疑問に思われる方もおられるかもしれません。

 それは確かにあります。けれども、この世の命を超える、新しい命の希望は、神が創られたこの世界と、神がこの死すべき肉にあって生きるものとして与えられた命に繋がっています。

 新しい命と神の国は、この世の命とこの世の単なる延長ではありません。そこには断絶「も」あります。けれども連続性「も」あります。

 隣人になり得なかった者たちと共に、祝宴の食卓につくという生き方そのものが、新しい命に、永遠の命に繋がっています。

 そして今日の午後、RENの方々と共に食卓を囲む時、私たちは新しい命を、永遠の命を、すでに、今、ここで味わいます。

ナザレのイエスに出会い、イエス様を通して出会う人々と共に囲む食卓の交わりの中に、永遠の命の希望と、天地創造の完成を見ることができますように。