聖霊降臨後第10主日 説教

2026年08月02日(日)聖霊降臨後第10(特定13)主日(A年)

イザヤ書 55:1-5; ローマ9:1-5; マタイ14:13-21

 今朝の福音書朗読は、「5千人の給食」と呼ばれる物語です。

 この「5千人の給食」の物語について特筆するに値することは、この話が4つの福音書すべてに、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にもあるということです。

 実は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全てに出てくる物語というのは、それほど多くありません。

 「5千人の給食」の他に、4つの福音書すべてにある物語は、次の8つです。

 「バプテスマのヨハネの宣教活動」(Mt 4:12; Mk 1:14; Lk 4:14–15; Jn 4:1–3)、「エルサレム入場」(Mt 21:1–11; Mk 11:1–11; Lk 19:28–38; Jn 12:12–15)、「イエスが香油を注がれる」(Mt 26:6–13; Mk 14:3–9; Lk 7:36–50; Jn 12:1–8)、「ユダの裏切りの予告」(Mt 26:21–25; Mk 14:18–21; Lk 22:21–23; Jn 13:21–30)、「ペテロの裏切りとその予告」 (Mt 26:33–35, 69–75; Mk 14:29–31, 66–72; Lk 22:33–34, 54–62; Jn 13:36–38, 18:15–18, 25–27)、「十字架刑」(Mt 27:27–56; Mk 15:16–41; Lk 23:26–49; Jn 19:16–37)、「アリマタヤのヨセフの墓へのイエスの葬り」(Mt 27:57–61; Mk 15:42–47; Lk: 23:50–56; Jn 19:38–42)、「イースター・イヴェント/空の墓の発見、新しい命に起こされたイエスの顕現」(Mt 28:1–8; Mk 16:1–8; Lk 24:1–12; Jn 20:1–18)

 「バプテスマのヨハネの宣教活動」を除いて、4つの福音書すべてに登場する物語のほとんどが、イエス様の生涯の最後に、十字架刑の前後に集中しています。

 そして「5千人の給食」の物語だけが、イエス様の生き方と宣教活動と接点がある、4つの福音書すべてに登場する唯一の物語です。

 私は事あるごとに、イエス様は元祖パリピで、パーティーが大好きで、パーティーからパーティーを渡り歩いた人なんだという話をしています。

 今日の福音書朗読の物語の背後にも、そのイエス様の姿が垣間見えます。

 福音書は伝記でも、歴史書でもなくて、イエス様を主人公として書かれた、ノン・フィクションと、フィクションと、歴史小説を足して3で割ったような物語です。

 厳密に、歴史学的に言えば、「五千人の給食」は、いついつ、どこどこで起こった、と言えるような出来事ではありません。

 けれども、この物語との関係で、歴史的に、確実に言えることがあります。それは、イエス様が語った「神の国」の中心に食事があったということです。

 「神の国」の中心にある食事は、生物学的な命を維持するための、単なる栄養摂取ではありません。それは、イエス様自身が喜び楽しんだ食事です。

 排除され、差別され、苦しみの中に放置され、人から後ろ指を刺されるようなことをしなければ生きられない、そういう人たちと共にイエス様が囲んだ祝宴の食事です。

 そしてイエス様が中心にいる祝宴の食卓は、外に広がっていく、成長する食卓でした。

 今日の「5千人の給食」の物語は、外に広がり、成長する神の国の祝宴の性質を、非常によく表しています。

 この物語は、共に食事をすることの中にある神の国を、家の中から、さらに大きな群衆が集まる屋外に、食事の場を移しています。

 「5千人の給食」の物語は、誰が見ても分かる通り、奇跡の物語として語られています。しかも、イエス様が行なわれた、もっとも大きな奇跡の業の物語です。

 けれども、この奇跡の業は、イエス様一人で成し得たものではないはずです。

 「5千人の給食」の奇跡は、イエス様の言葉を聞いて、イエス様とイエス様の周りに集まってくる人たちのためにお金を使い、食材を提供し、食事を準備し、給仕してくれる人たちが、イエス様と共に可能にした奇跡の業なのです。

 私たちがイエス様の言葉を聞いて、その言葉を生きようとするらな、そこににも小さな奇跡が生まれます。それは神の国が、この世に現れるという奇跡です。

 人が人として生きるために必要なものを、神から与えられた恵み、祝福として受け止め、分かち合うことによって「共に生きる」コミュニティーがこの世に生まれる事そのものが、一つの奇跡です。

 そこには、神の国の豊かさと、喜びと、平和が現れます。

 世界は今、地政学的な激動の真っ只中にいます。戦後80年に渡って続いて来たアメリカ中心の世界秩序はすでに過ぎ去りました。

 日本はもはや、経済大国でも無ければ、豊かな国でもありません。

 排外主義と表裏一体で推し進められて来たアメリカ依存の故に、日本には今後、政治的にも経済的にも、厳しい未来が待っているでしょう。

 私たちはそのような現実と向き合った上で、祝宴共同体として歩む道を見出さなくてはなりません。

 つい先日、西永福の中華料理屋さんで食事をしていたとき、農学博士の友人の口からこんな言葉が漏れました。

 近い将来、日本でも、働いて、給料をもらって、それで食糧を買うということができなくなるだろう。

 だから、自分の食べるものを、コミュニティーが必要とする食料を、自分で作れるっていうことがますます大事になるんだ。

 私も数年前から、日本の急激な貧困化という現実を前に、教会も食料を自給自足できるようにならないとダメじゃないかと考え始めていました。

 農村伝道神学校との繋がりもできましたし、自給自足を目指す祝宴共同体の可能性を、本気で考えてみたいと思います。

 マーガレット教会から1時間以内でいけるところに耕作放棄地があったら、ぜひ教えてください。

 自給自足型コミュニティーの作り方について、アイディアや知見をお持ちの方、ぜひお話を聞かせてください。

 いずれにしても、他の人が持てないものを持ち、他の人が食べられない物を食べ、他の人が行けないところに行き、他の人にはできないことをすることが成功で、それが幸せなんだという資本主義社会の幻想を捨てるべき時が、すでに来ています。

 フェラーリで行っても、BMWで行っても、カローラで行っても、軽井沢は軽井沢です。

 一人2万円のフランス料理を食べて過ごす2時間が、一人4千円の食べ放題/飲み放題の中華料理屋で過ごす3時間よりも5倍の幸せや喜びをもたらすわけでもありません。

 土を耕し、作物を育て、収穫をし、料理をし、食卓を整え、そして共に食卓を囲む。

 その中に喜びと豊かさを再発見し、私たちが神の国の祝宴共同体として歩み、成長していくことができるように、上よりの知恵と聖霊の息吹を求めて祈りましょう。