聖霊降臨後第17主日 説教

2026年9月20日(日)聖霊降臨後第17(特定20)主日

ヨナ3:10-4:11; フィリピ1:21-30; マタイ20:1-16

私は昨年、2025年の8月に、キリスト教系NGOで働く友人の招きを受けて、「ロング・デボーション」というお祈りの時間に、職員たちの前で話しをすることになりました。

 聖書箇所も話しの内容もお任せしますと言われたものの、NGOで話しをするのも初めてで、さらに職員の半分はクリスチャンじゃないと聞いて、「さて、何を話したものか」としばらく頭を悩ませました。

 その時にふと、「そう言えば、自分がここに存在しているのも、キリスト教系NGOの働きのおかけだった」ということを思い出しました。

 そして、今日の福音書朗読の物語(マタイ20:1-16)を読んで、私が生きているのはキリスト教系のNGOのおかげだという話をすることにしました。

 私の母は1935年の1月生まれで、五人兄弟の長女でした。どういうわけか、戦争真っ只中の1940年か41年あたりに、茨城の下妻から東京都の稲城市に移り住み、そこで敗戦を迎えました。

 母方の祖母はよく、七人の家族は空襲で家を焼かれ、食べるものも底をついて、一家心中を考えていたと話していました。

 そんな時に、私の母と家族は、北米大陸のクリスチャンたちが寄付してくれた大量の救援物資によって、文字通り、命を救われました。

 この救援物資は「ララ物資」(LARA – Licensed Agency for Relief in Asia)と呼ばれ、1946年から1952年の間に、船で458隻分にも上る食料・医薬品・衣料・学用品などが日本に届けられました。

 敗戦国日本に「ララ物資」を届けるために、1946年にアメリカで CWS (Church World Service) というチャリティが設立され、同じ年に日本支部も東京に置かれました。

 こうして日本に送られてくる「ララ物資」の半分はCWSが引き受け、教会やキリスト教団体を通して配給されました。

 私の母と家族は、このCWSを通して配給される援助物資を受け取るために、後に日本キリスト教団の稲城教会となる伝道所に足を運ぶようになります。確か、米軍から引き下げられたバラックを伝道所として使っていたと聞きました。

 CWSのおかげで命をつないだ母は、中学生のときに洗礼を受けました。

 勉強好きで成績も優秀だった母に、中学校の先生は高校進学を強く勧めたそうです。しかし母の両親は、高校に行かせるのは長男だけでいいと思っている人で、彼らの辞書に「女子教育」という言葉はありませんでした。

 高校進学の夢を断たれた母は、中学校卒業後、下の4人の兄弟たちと家族を養うために働きに出て、最初の結婚は35の時でした。

 私を産んだ直後に離婚し、別の男性と再婚したもののうまくいかず、二度目の離婚後、女手一つで私を育てることになりました。

 教育も無く、二人の元夫からの経済的支援も無い母にとって、それはとてつもなく困難なことでした。

 そして46歳のとき、母は文字通り人生に絶望し、社会生活から完全に撤退し、家から一歩も出なくなりました。誰とも会わず、話しもしなくなりました。

 2011年8月4日に76年の生涯を閉じた母の人生は、戦争がもたらした貧困と荒廃そのもののような人生でしたが、CWSを通して供給されたLARA物資のおかげで母の命が助かった事実は変わりません。

 ですから、キリスト教系NGOのおかげで私が存在しているというのは、大袈裟な話しでも、比喩的な意味でもないんです。

 さて、今日の福音書朗読の物語は、新自由主義という拝金主義が支配する「労働とその対価としての賃金」という常識を、木っ端微塵に吹き飛ばします。

 ぶどう園の主人は、夜明けに収穫を手伝ってくれる労働者を雇うために出かけて行きます。

 そして雇った人に1日1デナリオンの約束をしてぶどう園に送ります。

 ナザレのイエスが宣教活動をしていた時代に、日雇い労働者に支払われる1日分の賃金。それが1デナリオンでした。

 この1デナリオンは、一つの家族が、その日に必要なパンを買うために必要な額です。

 ぶどう園の主人は、9時、12時、午後3時、そして午後5時に、夜明けにしたことを繰り返します。広場で見つけた人をぶどう園に送るのです。

 9時に雇った人に対しては、「それなりの賃金」を払うことを約束しているだけ、12時、3時、そして5時に雇われた人たちについては、賃金の約束すらしていないようです。

 1日が終わり、最初に5時に雇われた人たちが賃金を受け取ります。すると、実際にはほとんど働くことのなかったであろう彼らが、1日分の賃金、1デナリオンを受け取りました。

 なんて気前の良い主人でしょうか!これを見た他の人たち、特に朝から働いていた人たちの期待が高まります。

 「ほとんど働かなかったあいつらですら一日分の賃金を受け取ったんだ。自分たちはもっとたんまりもらえるに違いない」と。

 しかし朝から働いた者たちが受け取ったのも、同じ1デナリオンでした。

 時間を売って金を得ることを当たり前としている私たちは「不公平だ!」、「卑怯だ!」と叫びたくなります。「不正な物語」だと言いたくなります。

 しかし世界の大部分の、「本当に働く」人々にとって、この物語は「法外な祝福の物語」です。

 現在、世界で最も裕福な4人が所有する富は、約78億の世界人口の下半分に属する39億人が所有するすべての富を上回り、経済ピラミッドの下半分に属する人々が貧困状態に置かれています。

 1970年の時点で30対1だったアメリカの一般労働者と会社の最高経営責任者の給与格差は、2018年には300対1になり、5年後の2023年には344対1にまで拡大しています。

 これはあくまでも平均であって、この格差がずっと大きい企業が沢山あります。

 新自由主義が支配するグローバル経済の下で富裕層と一般労働者層との格差は無限に拡大を続け、労働者は使い捨てにされています。

 このようなグローバル経済の現実を直視すれば、マタイ20章の冒頭の物語を「ずるい物語」、「卑怯な物語」、「不公平な物語」として読むことができるのは、特権を享受している一部の人間だけでしかないことがわかります。

 世界は平等でも公平でもありません。心身に障害を持つ人、幼児期に自分を保護してくれる親や大人がいなかった人、教育を受けられない人など、一人ひとりを取り巻く状況は極度に不平等であり不公平です。

 しかし、ナザレのイエスが、ぶどう園の主人の姿を通して示す神は、すべての人に1日1デナリオンを、1日に必要な糧を与えることを願う神です。すべての者が、日々の糧を与えられ、「明日、食べるものにありつけるだろうか」と心配しなくてもよい世界を願う神です。

 神は、この世界に生きるすべての人が必要とするものを備えてくださっているのに、そこに欠乏が生まれるのは、一部の者たちが、他の人の分を奪い取っているからです。

 誰も援助を必要としない世界、誰もが豊かに生きられる世界、それこそ世界のあるべき姿です。

 ですから、本来、援助は一時的なものであれば、あるほどよいわけです。そういう意味では、すべてのチャリティーや支援団体は、自己消滅を内包しているべきです。

 私の母と家族は、 CWSを通じて与えられたLARA物資のおかげで命を繋ぐことができました。しかし母が生きた世界の経済は、彼女に与えられている可能性を育てることも、一人の人間として豊かに生きることも許しませんでした。

 今、グローバル経済と呼ばれているものは、貧しい者から富を収奪して、金持ちに再分配するためのシステムにすぎません。

 そのために、「豊かな国」で貧困が拡大し、さらに多くのチャリティーや支援団体が必要とされているのです。

 私たち聖マーガレット教会も、衰退先進国となった日本で、再び貧困問題に向き合うことになりました。

 しかも私たちはすでに、夕方まで雇ってもらえない人たち、5時になっても雇ってもらえない人たちに出会っています。

 REN(「難民自立支援ネットワーク」)を通して私たちが出会った難民申請者たちは、働きたいのに働けません。働くことを許されないんです。県をまたいで出かけることもできません。

 新天地を求めてやってきた人々をめぐるこの国の法律は、神に対する冒涜であり、法が人間の尊厳を蹂躙しています。

 それでも、いやだからこそ、私たちは、ナザレのイエスが語られた神の国のヴィジョンを生きることを諦めません。

 5時まで雇って貰えない人々と共に、ナザレのイエスが示された神の国の豊かさと平和を生きるために、聖霊の息吹と知恵を求めて、祈りを捧げましょう。