









2026年9月27日(日)聖霊降臨後第18(特定21)主日
エゼキエル18:1-4,25-32; フィリピ2:1-13; マタイ21:23-32
「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」
神殿の境内で、神殿当局者の許可を得て商売をしている人々を蹴散らしたイエス様に、祭司長や長老たちが詰め寄ります。
イエス様の時代のユダヤ人社会にも、偉い人たちがいて、偉い人たちは「権威のある人」と見做されていました。
ここに登場する祭司と長老たちは、エルサレム神殿を取り仕切る権威を持った、神殿当局を構成する「偉い人たち」です。
ここで大急ぎで付け加えておかなくてはならないこととして、エルサレムの祭司長と長老たちは、ユダヤ人社会のエリートたちの中で、最も多くの富と、最も大きな特権と、最も大きな権力を握っている人たちであったということを覚えておいてください。
つまり、律法に基づく神殿中心体制の中で、もっとも「権威」のある人間たちが、イエス様に向かって、「お前は誰から、どんな権威を与えられてこんなことをしてんだ!」と怒りを燃やしているんです。
もちろん、祭司長と長老たちは、イエス様に何の権威もないと思っています。
祭司長と長老に代表されるユダヤ人社会の偉い人たちの「権威」は、更に高い権威から導き出されたことになっていました。
あらゆる権威の源泉としての権威。それは神の掟とされる「トーラー」、「律法」でした。
しかしイエス様は、自分の「権威」を、律法から引き出そうなどとは、1ミリも考えていませんでした。イエス様に権威を与える書物も、人間も存在しませんでした。
今日の福音書朗読箇所の中で、ナザレのイエスその人の声がもっとも強く響いているのは31節です。
「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。(21:31)
イエス様は、誰の権威にも、いかなる書物の権威にも訴えずに、ただそう宣言しています。徴税人や娼婦たちは、律法によれば、神に呪われた存在であるにも関わらずです。
そして、このイエス様を、ユダヤ人エリートたちは、立場や伝統の違いを超えて、亡き者にしなくてはならないと考えました。
それは、イエス様が平気で律法を踏み越えて、律法そのものを無効にして、エリートの権威と特権とを脅かすような人だったからです。
ナザレのイエスは、人がルールを作るのだということを知っていました。
神の掟だと言われる「律法」も、エリートの支配と特権を正当化するために、人間によって作られたものであることを、イエス様は知っていました。
さて、世界にはおおよそ190万種類の生物がいると言われます。そして人間は、その中の一つの種に過ぎません。
しかし人間だけが、あらゆる生き物の中で、自然法則以外の法やルールによって生き方を規定する存在です。
人間以外のすべての生き物は、いわば彼らの中にプログラムされた法則に従って生きています。しかし人間が人間として生きるためには、自然法則だけではやっていけません。
二人以上の人間が共に生きていくためには、自然法則とは別の、人が自ら作り出したルールが必要です。
交通ルールが無ければ、私たちは安全に道を歩くことも、車を運転することもできません。
交通ルールが絶対不可欠で、しかも私たちにとって有益なことは、誰の目にも明らかです。
ところが作られるルールが、常に、すべての人にとって有益なわけではありません。
むしろ多くの場合、ルールは人を支配したり、コントロールしたりするための道具として作られます。
イングランドから白人たちがアメリカ大陸にやって来たとき、そこには当然のことながら、native Americanの人々が暮らしていました。
そこでイングランドからやってきた白人たちは、native Americanの人々がが住んでいた土地を白人の所有物にすることは、略奪にはならないというルールを作り、自分たちの征服活動を「合法化」しました。
「脱構築」(déconstruction)の提唱者として有名なフランス人哲学者 Jacques Derrida は、Force de Loi (『法の力』)という本の中で、アメリカ合衆国憲法の制定に至るプロセスを分析して、法を制定するという営みには、必ず、正当化し得ない暴力が伴っていることを明らかにしました。
本来、誰も、ルールを作る「権威」など持っていません。ルールを作る者は、特権的な地位に自分を置き、自分が作ったルールに人々を服従させるために、脅迫と正当化できない力、つまり暴力を用います。
大日本帝国も、自分たちが作った「法律」によって、朝鮮半島を侵略して植民地にすることを、中国を侵略して満州国なるものと作ることを「合法化」しました。
問題はどこにあるのでしょうか?問題は、ルールを作る人間は、ルールに縛られないということです。ルールを作る人間は、自分の都合に合わせてルールを作り、自分の都合のいいようにルールを作り変えるのです。
それは今、私たちの目の前で起こっています。国際刑事裁判所(ICC)の主任検察官だったKharim Kahnは、ネタニヤフに逮捕状を出した後、性的虐待疑惑をでっち上げられ、その職を追われました。
その後に、ネタニヤフに対する逮捕状を追承認したNicolas Guillou判事は、クレジット会社のVisaとMasterからカードを停止され、一切の支払いができなくなり、生活ができない状態に追いやられました。
国連パレスチナ被占領地域特別報告者のフランチェスカ・アルバネーゼ(Francesca Albanese, UN Special Rapporteur oPt)にも、同じことが起きました。
世界最悪の犯罪者を守るために、巨悪を守るために、正義を求める者たちが犯罪者扱いされ、社会的に抹殺されています。
そしてトランプ政権は、国際刑事裁判所の解体を求め、追随しない国に制裁を下すという脅迫をしています。
これは映画の中の話しではありません。今、私たちが生きている、この世界の現実、シオニズム支配の現実です。
権力と富とを握る者たちが、自由気ままにルールを定め、そして破壊するその様を、私たちは目撃しているのです。
もし私たちが、ナザレのイエスに倣い、神の国の民として生きようとするなら、私たちは法が正義を実現するわけではないことを肝に命じる必要があります。
イエス様が私たちに与えたものは、律法に並ぶ権威ではありません。律法を無効にする神の国です。
私の大恩師で、上智大学の生命倫理の教授だったホアン・マシア神父さんは、講義の中で何度となく、「ルールはルールのためにあるのではない」という言葉を繰り返していました。
ルールが、「いかなる価値」を志向し、実現しようとしているかと常に問われなくてはならないのに、日本ではそれがまったくといいほどなされない。
マシア先生は日本の教育現場に、そして社会全体に、ルールのためのルールが多すぎることに、強い危機感を抱いていました。
人はルール無しに生きることはできません。しかしルールを作る人間たちを監視し、批判し続けなければ、ルールは必ず、権力と富を持つ者たちの道具に成るのです。
そしてついには、今まさにそれが起きているように、悪を正当化するための道具に成り下がります。巨悪が法によって正当化されるのです。
ナザレのイエスを通して私たちに神の国を与えられた主なる神が、この危機の時代に、神の国の民として生きる知恵と勇気を与えてくださいますように。
