









2026年10月4日(日)聖霊降臨後第19(特定22)主日
イザヤ5:1-7; フィリピ3:4b-14; マタイ21:33-46
実は本日、10月4日はアッシジのフランシスの祝日です。聖公会の中には、アッシジのフランシスが小鳥に福音を語り、猛獣を手なずけたという伝説にあやかって、動物の祝福式をする教会もあります。
何ヶ月か前の教会委員会の中で、一人の委員の方が、聖マーガレット教会でも動物の祝福式をしたらどうかという提案をしてくれました。
それを受けて、昨日初めて、午後2時から4時の間に、「命の祝福」という新しい試みを、教会の駐車場で行いました。
初めてやることですし、入念な準備をしたわけでも、大々的に告知をしたわけでもありませんでしたから、「教会関係者が3,4組来てくれれば上出来かな」と思っていました。
ところが蓋を開けてみると、と言いますか、蓋が開く前から、犬を連れた方々が駐車場に続々と集まって来られまして、最終的には犬18頭とサワガニ2匹との上に手を置いて祝福のお祈りをしました。
人と深い関係を築いて生きている動物たちが、その動物たちがいなかったら出会うことがなかったであろう人との出会いを与えてくれることを経験する、とても豊かな時でした。
私たち家族も、今年に入って、ソナという黒い小型犬を引き取って、一緒に生活しています。
家族一同、毎日、一緒に生活するようになった小さな命に癒されておりまして、この命が家族に加えられたことを本当に感謝しています。
でも私は、うちの小犬を抱きかかえる度に、ある司祭との会話を思い出します。
その司祭の方がある時こう言われたんです。「私は昔は犬が好きだったけれども、今ではペットの動物が嫌いになりました」と。
すぐに何を言わんとしているのかピンと来ましたが、「なぜですか」と一応聞き返しました。
すると「人よりもペットが大事にされる社会になっているからです」と、予想通りの答えが返ってきました。
万年貧困生活に甘んじている私自身もしょっちゅう、「ペットの犬や猫の方が、私よりも遥かに良いものを食べて、良い生活してますから!」と言ってきました。
そんなこともあって私の中には、今回の企画を、単なるペットの祝福式にはしたくないという思いもありました。
祝福式でどう祈るか悩んだ末、このように祈ることにしました。
「神様、あなたは愛と恵みをもって世界を創造し、命で満たしてくださいました。そして私たちを、その命の繋がりの中で生きる者としてくださいましたことを感謝いたします。どうぞ特別な交わりを与えられたこの命を、(動物の名前)を祝福し、私たちの内にすべての命を尊ぶ心をお与えください。イエス様の御名によって。アーメン」
さて、今日と先週の日曜日の福音書朗読で読まれた物語はどちらも、マタイ福音書の著者が所属しているユダヤ人教会の勝利宣言です。
今朝の福音書朗読の物語は、物語の登場人物や舞台設定の背後に別の何かが隠されている、allegoricalな、寓喩的な物語です。
33節の「ある家の主人」は「神」、「ぶどう園」は「神の国」、ぶどう園を貸りている「農夫たち」はイエス様を十字架につけて殺すために陰謀をめぐらした祭司長たち、長老たち、神殿貴族のサドカイ派の人々、そしてマタイ福音書の背後にある共同体が対立しているファリサイ派の人々。
収穫を受け取るために家の主人が遣わした「僕たち」は旧約聖書の預言者たち、雇い人の農夫たちに殺されてしまった主人の「息子」はイエス様のことです。
そして、悪人ども、すなわち雇い人の農夫たちの滅びと、収穫をきちんと収める別の農夫たちへのぶどう園の移譲は、紀元後70年のエルサレム神殿の崩壊と教会の勝利を表しています。
この物語の意図は明確です。祭司長、長老、神殿貴族のサドカイ派、マタイ福音書の共同体が対立しているファリサイ派は神に見捨てられ、自分たちこそが神の選びの民なのだ。そう言うために、この物語は構成されています。
イエス様はユダヤ人社会のエリートたちと対立しました。それは歴史的事実です。
そして、イエス様はユダヤ人社会のエリートたちの陰謀によって殺されました。それも紛れもない歴史的事実です。
けれども、「神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる」(21:43)というイエス様の言葉の中に出てくる「御国にふさわしい実を結ぶ民」は、もともとは、マタイ福音書の教会のことではありません。
マタイ福音書の著者は、イエス様の言葉を自分たちに当てはめて、ファリサイ派と対立している自分たちのことを「御国にふさわしい実を結ぶ民」と言っています。
けれどもイエス様が語った「御国にふさわしい実を結ぶ民」は、先週の福音書朗読で読まれた、21章の23節に出てくる人たちです。
「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。(21:23)
神の掟とされる律法が神に呪われた者として排斥する人々の代表格である徴税人と娼婦たち、彼らこそイエス様が語った「御国にふさわしい実を結ぶ民」です。
祭司長や長老にも、サドカイ派にも、ファリサイ派にも、クムラン教団にも受け入れられない、徴税人や娼婦たちが、「御国にふさわしい実を結ぶ民」として、神の国に入っている。
今日の物語は、徴税人や娼婦たちが結んだふさわしい実が何だったのか、私たちに教えてくれません。
けれども律法と神殿から拒絶された人々こそが、先に神の国の中にいることだけは確かです。
宗教と政治と経済を仕切る人たちに排斥され、周辺化された人々、あるいは底辺に追いやられた人々が先に、神の国にいるんです。
そうしますと、私たちは、構造的な抑圧の下にある人々や、経済構造が生み出す貧困者、あるいは政治や経済の中心にいる人々によって外部へと押し出された人々をそのままにしておいて、神の国の民として生きることはできないということになります。
イエス様に倣って命を尊ぶ道は、自分と親しい関係を結ぶことになったペットを家族として大切にします、というところで止まってはなりません。
「イエス様に倣って命を尊ぶ」ことは、パレスチナの人々や、アルペ難民センターやREN(難民自立支援ネットワーク)を通じて出会った難民申請者の方々を忘れずに、彼らと共に生きる道を求めて祈り続け、ふさわしい実を結ぶことです。
聖マーガレット教会が、ふさわしい実を豊かに結ぶ、イエス運動の共同体として生き、成長していくことができますように。
