










2026年10月11日(日)聖霊降臨後第20主日(特定23)
イザヤ25:1-9; フィリピ4:1-9; マタイ22:1-14
10月2日の金曜日に、関西学院大学の「キリスト教と文化研究センター」とエキュメニカル・ネットワーク主催の公開シンポジウムが行われました。
私も登壇者の一人として呼ばれていたので、関学の大阪梅田キャンパスまで行ってきました。
時間不足等色々ありまして、せっかく集まった4人の登壇者が互いに言葉を交わす時間が殆ど無かったのは残念でしたが、新しい出会いが与えられたことは大きな感謝でした。
今回のシンポジウムの直接の課題は、クリスチャン・シオニズムとパレスチナ問題でしたが、登壇者の一人がボンヘッファーの研究者で、ボンヘッファーを巡ってアメリカで起こっている大論争について話してくれました。
ディートリヒ・ボンヘファー (Dietrich Bonhoeffer) はドイツ国教会の牧師であり、21歳の若さで博士論文を完成させた、有能な神学者でした。
1933年にヒトラーがドイツ議会を停止して全権を掌握し、総統 (Führer)となると、ドイツの国教会はナチス政権の圧力に屈してアーリア条項を受け入れ、ドイツ国教会からユダヤ人を排除します。
ドイツの教会がヒトラーのもとに膝を屈めた後、ボンヘッファーはドイツ告白教会運動に参加し、ナチズムの闇がさらに深まる最中の1940年には、ナチス政権転覆計画に深く関与していきます。
1943年、ボンヘッファーはGestapo(秘密警察)に逮捕され、1945年の4月9日、ナチス・ドイイツが降伏するわずか2週間前に、ヒトラー暗殺計画に関与した「罪」で処刑され、36歳の若さで生涯を閉じることになりました。
ボンヘッファーの神学の大部分は平和主義に貫かれています。彼は、巨悪に対する戦いのためであれば、暴力も正義になるなどとは思っていませんでした。
ボンヘッファーは、一人の人間が絶対的権力を握るためには、群衆の側の「愚鈍」を必要とすると言います。
一旦、Dummheit(愚鈍)の支配に身を委ね、自律的判断能力を停止した人間の前では、理性、知性、言語が力を失います。
Dummeheit(愚鈍)の支配が訪れたら最後、悪は悪として認識されなくなり、狂人の暴走を止める手段がなくなります。
すると、Dummeheit(愚鈍)の支配が終焉を迎えるのは、社会が崩壊する時だけだということになります。
ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に関与することになったのは、すでにドイツ全体がDummeheit(愚鈍)の支配する世界となっていたからです。
彼は、狂人と共にドイツが崩壊する時を待つのでは無く、狂人を権力の座から引きずり下ろさなくては成らない。そう思ったのです。
しかし、彼の中から、暴力を行使することへの迷いが消えることはなかったはずです。なぜなら、彼の神学は、圧倒的に平和主義だからです。
先日のシンポジウムの中で、ボンヘッファー研究者の方はこのように言っておられました。
ボンヘッファーは、ヒトラーが悪であることを疑うことは無かったけれども、悪と戦う手段については迷いがあった、と。私もその通りだと思います。
ところがアメリカの福音派は、ボンヘッファーをトランプと重ね、トランプ政権の暴力に対する支持を訴えるという暴挙に出ています。
2024年に公開された映画「ボンヘッファー」の配給会社であるAngel Studiosは、トランプ支持者の福音派を支持基盤としています。
Eric Metaxasというインフルエンサーは、福音派にこの映画を観ることを勧め、今こそ「Bonhoeffer moment」であり、悪の支配を打ち破るために暴力の行使をも厭うべきでは無いとの主張を繰り返しました。
つまり、ヒトラー暗殺計画へのボンヘッファーの関与と、トランプ政権が世界中に拡大する戦争が同列に並べられ、トランプは殉教者のボンヘッファーと同一視されているのです。
これを知った約100人のボンヘッファーの遺族たちは、公開書簡を通して、Metaxasとアメリカの福音派がボンヘッファーの神学を歪めていると抗議しました。
するとMetaxasはボンヘッファーの遺族を「反ユダヤ主義の狂人」と呼んで応酬しました。
実は、今日の福音書朗読の物語は、アメリカ福音派によるボンヘッファー神学の改変に通ずるものがあります。
福音書の中で、祝宴や婚宴は、しばしば神の国の豊かさや、神の国の喜びの象徴として用いられています。
しかし今朝の譬え話の中では、祝宴が、神による拒絶のシンボル、しかも二重の拒絶のシンボルとして用いられています。
第一に神から拒絶されたと見なされているのは、マタイ福音書の教会が敵対する主流派のユダヤ人、祭司長、長老、サドカイ派、そしてファリサイ派の人々です。
神から拒絶されたと見なされている第二の人々は、マタイ福音書の教会から追い出されたメンバーです。
この二重の拒絶の物語を聞いているマタイ福音書の教会のメンバーたちは、敵が神に退けられ、滅ぼされたことを喜び、自分たちは「神に選ばれた者たち」だと喜んでいるのです。
マタイ22章6節と7節の「6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。7 王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という部分は、並行箇所のルカによる福音書14:15節から24節の中にありません。
この部分は、明確に、マタイ福音書の著者による創作です。
マタイ福音書の背後にあるユダヤ人教会は、イエス様と敵対したユダヤ人エリートと、自分たちが敵対するユダヤ人勢力の破滅を喜び、なおかつ敵対者の滅びを、イエス・キリストの勝利として掲げています。
こうしてマタイの福音書は、イエス様が語られた神の姿を著しく歪めてもいます。
イエス様が語った、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」恵み深く憐れみ深い神は背景に後退し、律法を貫く、敵を滅ぼす力である神が、再び前面に現れています。
ナザレのイエスが語った神の国の福音の中心は、彼が十字架の上で死んだことにあるのでもなく、彼の敵対勢力が滅ぼされたところにあるのでもありません。
神の国の福音の中心は、イエス様が罪人と共に囲んだ食卓の喜びであり、新たな命へとイエス様が起こされた希望によって与えられた喜びです。
今、この時は ‘Bonhoeffer moment’ ではありません。今は再度の ‘Dummheit moment,’ ‘stupidity moment’ 「愚鈍の支配の時」です。
ボンヘッファーが生きていれば、彼はトランプとネタニヤフをヒトラーと重ねたはずです。
敵の破滅を喜び、それを悪に対する神の勝利と見なすクリスチャンは、いとも簡単に、イエス様が拒否した暴力による正義を喜び、承認することになります。
「愚鈍の支配」が再び訪れた今、イエス様を通して示された神の国の喜びは、境界性を乗り越えていく食卓の交わりとナザレのイエスが死から新たな命へと起こされたことにあることを、思い起こしましょう。
命の与え主なる神様が、暴力に満ち溢れる世界の中で、暴力を放棄して神の国の平和を作る知恵と、勇気を与えてくださいますように。
